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【雑記】2024年3月中旬

朝起きたら9時であった。前日3時まで起きていたので仕方があるまい。好きなトピックのエッセイをガッと書いたのだ。なんせ、インプットが終わって、ついでに興が乗ったので。やる気がある時は切らないに限る。

蛇口を撚れば、厳密には蛇口を押せば、なのだが、とにかく水を出す予備動作をしようとしたのに水が出なかった。なんか知らんが断水しているらしい。少し遠くの水道まで行って(かろうじて)でていた水で顔を洗って化粧をして家を出た。断水しているならトイレに行きたくなる前に大学に転がり込むのが得策である。


インプットするのは、アウトプットするよりも面倒臭い。それは文章を読まなければいけないという面倒臭さもあれば、学べば学ぶほど己が無知であったことを実感するという経験でもあるからである。ああ、この人こんな風に言ってるんだこの前書いた作文に入れればよかった、ああああああああ。後悔、以下略。

問題に対して回答が出ない時、それは誰も回答を知らないか、インプットが足りないかの二択である。回答を知らない問題に対しては自分の考えを述べれば良いし、インプットが足りない時にはインプットすればよろしい。人生が怖いんですよねと溢した時に、それはね人生がまだ短いからだよと教えてくれた人生の先輩がいて、それはインプットが足りないからわからないロジックと同じである。

だから、私はリーディングをしているときが一番辛くて、ワードに文章をカタカタ打ち込んでいる時は半分鼻唄を歌っている。


わたしを端的に表すなら、クソ真面目なお人好しであった。最近は結構周りのことがどうでも良いので自己中心的に生きているが、そこそこお人好しであった時代もあった(と知り合いに評されていた)。

3月は英国の大学の合格通知が来はじめるような時期で、顔を見たことは無いけどブログから連絡してくれた方がファンデーションコースに合格したり、大学に受かったりする時期である。ファンデに受かりました、奨学金に受かりました、高校卒業です。これからの人生、幸せであれ、と思う。毎年この時期には同じことを言っている。私はなんの関係も無いから、無責任なりに幸せに生きてくれと願っている。合格おめでとう。広くて浅い愛を持とう。


春が来たので髪を切った。

コンタクトをして切りに行く。切っている間は本を読む。本を読んでいる間は話しかけてこないタイプの人だったのでありがたかったなと思う。

一重の瞼を、ずっとお世話になっているKATEのアイシャドーでキラキラさせて気分でまつ毛をあげている。KATEのアイシャドーってキラキラするからめっちゃいいですよね。ラメがめっちゃ飛びますけど。コンタクトをしてショートにして目をキラキラさせておくと、アジア人らしい小綺麗さみたいなのが出て私は好きだ。あとショートにすると首が長く見える(それは良いことなのか?)のと、5歳くらい老ける。

が、コンタクトをすると視力がメガネレベルまで上がらない上に乾くので、メガネブスとして生きるか目の渇きを我慢して一重の目を強調していくかのジレンマの中にいる。いちにち結局10時間くらいはMacbookの小さい画面を眺めているので、メガネブスとしての道のりが続くばかりである。23年生きたので、いい加減メガネブスとしての己を受け入れてやった方がいいと思う。


ポピュリズムの経済的費用についてプレゼンをしろというのでプレゼンをした。エッセイに使うわけではないから、そこそこのものを作った。スクリプトを用意しなかったが喋り続けられたのでああ成長したのかもしれないと思う。私はパブリックスピーキングにおいて、顔が赤くなるタイプの苦手意識を持っていたから。

その後図書館に篭っていたらNational Student Surveyからとうとう電話がかかってきた。英国の大学の最終学年の人たちは自分のコースについて、国レベルの調査への回答を期待されていて、それをNational Student Surveyと言う。

私は英国の大学を良くすることにはあまり興味がないので放置していたら(馬鹿高い学費を払っているので、それで義務は果たしただろうという姿勢)、とうとう電話がかかって来てしまった。電話で回答せよの旨らしい。仕方があるまい。

最後にnegative aspect of the courseを挙げろと言うのでDissertationのプロセスが…と言ったら、通じなかった。dissertation でも final year thesisでもダメだった。もう面倒だったので、終わりにしてくれと言って終わりにした。

そうか通じないのか、やっぱり私は英語力は伸びなかったよと無性に惨めな気持ちになった。


Transitional Justiceはグローバルなコンテクストで機能するのか?Transitional JusticeはAuthoritarian regimeの中では絶対に機能しないのか?(TJは元々権威主義体制から民主主義体制への移行の中での正義追求を求める概念である)、そして、 共同教科書はTJのツールになりうるのか?

などが私の持っている興味の一つであり、先週先生にぶつけてみたらセミナーで議題にあげてくれて嬉しかったんだけど、今週セミナーのチューター(Warick, political philosophy)に話してみたらTJのグローバルでの機能はまだだねえ、と教えてくれたのでそれも助かった。

Memory politics in Japan & Identity creation in East Asia, ontological security (post-war memory and identity)のあたりが私のプライマリーな興味であるが、共同教科書というのも興味の一つである。この二つは広義に言えば関係しているが(共同教科書は戦後の和解のために行われた手段の一つである)、厳密には異なるディシプリンに身をおいているー前者はいわゆるMemory Studies(政治学・国際関係より)であるが、後者はTJとかPeace studiesとかだしずっとずっと研究されていない。前者を院のプロポーザルと期末課題において、後者を大学の卒論で取り扱っていて、後者は博士に行くまでは忘れるだろうなと思う。多分大学の卒論で取り扱うにはMassiveすぎるし、博論で扱うには限られすぎている。気がする。知らんけど。

こうやってMemory studiesについて書いていると、ちょっと惨めな気持ちも消えるのである。

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