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【今日の論文】The Memory of Politics in Postwar Europe (Lebow 2006)

このチャプターの話をしています:
Lebow, R., N. (2006). ‘The Memory of Politics in Postwar Europe’, in Lwbow, R., N. (Ed.) ‘The Memory of Politics in Postwar Europe’, Durham: Duke University Press.


The two events in two different regions of the world were closely related, even if diametrically opposed in their symbolic value.

片方はローマ教皇にヒトラーユーゲントの履歴を持つ人がついたことに対する教皇庁の中での議論についてであり、もう片方については日本が国連安全保障委員会でpermanent seat(和訳が出てこない!Veto持ってる人たち)になろうとしていることに対して、中国がそこかしこで反対しているという事例である。

私はこういうのを読みたかったのだ!

記憶の政治(本文中ではpolitics of memoryとは言っていないが)を考える際に非常に良いと思った。問題意識は「戦後ヨーロッパで記憶はどのように構築されてきたか?」というところにあるが、実際はヨーロッパ以外にも適応できるであろう枠組みを提示しているからだ。

まず、collective memoryというのが社会構築されたものであるという概念を確認した上で、記憶というのは「特定の利益団体が、各々が利益を得るために構築するものである」という仮定に立っている。その際に、「記憶」というのは①人々が覚えるもの であると同時に、 ②特定の人々・団体が「このように理解してほしい」という解釈を普及させようとするプロセスでもある と言える(とLebowは言っている)。

その上で、「記憶」というのを理解するためには、①どのような理解が対立しているのか? ②どのようなインプットがあってその理解が構築されるのか? ③どうしてその理解が利益となりうるのか? ④その国独自の背景 を見る必要がある、と述べている。

その後の先行文献レビューはHalbwachをはじめとした記憶に関するベーシックノレッジだったので今回は飛ばした(いつか読みます)。

面白いと思った点が二つある。第一に、「記憶構築が利益団体によるinterestを得るための動きである」という仮説は、ヨーロッパ外でも普通に役立つという点だ。記憶に関する紛争というのは、私は「何が正しいか」よりも、「何を正しいと考えるか」がベースになるという考えにひどく同意していて、その点において例えば日本の自民党政権と韓国の大統領の認知する従軍慰安婦の数が異なるというのは、お互いがその認知から支持率をはじめとした利益を得られるというふうに理解できると思うからだ。この文章を「認識」という言葉を使わずに書くことの大変さと言ったら!同時に、Lebowが提示した4つの側面(本文ではdimentionと書かれている)は、特定国の記憶を理解する上でとても使いやすく整頓されたものであると思う。

第二に、社会構成論の中でも異なるアプローチができるんだなということに気がついたことだ。私は元々安全保障の概念における安全保障化の理論を歴史認識にアプライできるのではないか?というところが面白いなと思っていたが、この考え方では「政治的力を持っている人が、特定の問題を『安全保障問題である』ということで問題化する」けれど、Lebowの考え方でいけば、必ずしも安全保障問題化しなくても、「利益」を得るために異なる理解を普及させることが説明できるわけで、Mutually exclusiveではないがOverlapでもないな、と面白く思った。これは安全保障問題化というのがdepoliticiseするという側面がある(i.e. 普通の政治的メソッドではなく、extraordinaryな方法で解決しないといけなくなる)が、利益を得るためと理解すれば、政治学特有のpowerの存在として理解することができるという部分もあると思う。よく言われるけど、政治学ってpowerを理解する学問なので。


この本の作者であるリチャード・N・Lebow は1989年の世界革命の授業で、Orderの定義でサイトされていたので「この人はなんの人なんだ?」と思ったら、アイデンティティとか文化とかの側面から国際関係論を見ている人らしく、今はKing’s College にいるらしかった。バイト先の人とKing’s は東欧研究に強いのか?という話をしていて、そうでもないんだけどKing’sは政治学・戦争学部が強いので、結果として東欧研究も適用できるような先生が集まっているということなんだねみたいな話をしたのを思い出した。そういう環境って大事だよね、っていう。

ちなみにこうやって面白そうな論文を雪だるま式に(本当にsnow-balling methodというのだ)読んでいくと、全く卒論の先行文献レビューが終わりません。書くことがまっっっっったく入りきらないので、私の面白論文ノートだけが潤っていくのである。

それが教育なのでは?(曲解) 引退したら年金で暮らしながらUCLのアカウントで学術論文を読み耽る毎日を暮らしながら死んでいきたい。幸せな老後。

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