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【大学の話?】いつものように歴史の話をしよう(2) 慰安婦問題判決とか

とても良い学びがあったのに、諸事情で大学のレポートに使えなくなってしまった。クソが!!!!!!ここに供養します(温度差)。最近なんか疲れてるから脳みそからそのまま出てきたみたいな文章しか書けなくなってるんだ。


2018年から2024年にかけて、強制徴用工問題は新たな展開を迎えているように見える。韓国国内法廷で当時徴用を行っていた日本企業に対して賠償命令が出ているのである。また、慰安婦問題に対しては日本国に対して国家賠償を求める判決が出ている。これが新しい展開なのか否かはそのうちえらい学者が歴史評論とか学術の動向あたりに寄稿するか、10年後くらいに僕が自分で結論を出すかするからそのままにしておこう。

今更、どうしてそんな判決が出るのだろうか?韓国法廷はどのような理論に立ってその判決を下したのだろうか?そのような判決を出すことは、「あり得る」のだろうか?と(批判するよりも)興味があったので、レポートにするために色々読んだわけである(使えなくなったわけだが)。

色々と論文を読んでみて、面白いと思ったことが二つある。以下に書くことは、私が10時間くらいのリーディングを通して何となく理解したことであり、私は国際法に本当に弱いので、全く参考にしないでほしい。英語式に言うとDon’t cite me for thatである。無責任で便利な表現だ。

一つ目は、Crime against humanityはどこまで国家主権に優位するのだろうか?という問いである。jus cogens(強行規範)と言われるもので、国際法の中でも絶対に逸脱することが許されないとされる規範と理解される。韓国法廷は慰安婦問題等がこれら人権を犯した強行規範に反し、伴っては本来対等のはずの日本政府に対し国内法廷で裁けると言うものなのだが、これはそう言うものなのだろうか?

これの比較例として、イタリアでのナチスに対する判例が引かれることもある(らしい)のだが、実際のところはInternational Criminal Court of Justice でも European Convention on Human Rights でも確立されたとは言えないようだ(Nam 2022, p.472; Ju 2023, p.37)。確立されたと言えない、と言うのは国際法においては判例の積み重ねで方が形成されるのも大いにある(と習った)ので、確立されたと言えれば法としてそれを参照するのは別にいいわけである。

ただ、確立されていようがいまいが、国際法のトランスナショナルな性質というのは面白いと思った。つまり、国内法廷が他の国の似た事例から判決を引っ張ってきて、論拠とできるという性質自体が、世界のさまざまな「歴史問題(東アジア以外でHistory problemという呼称を使うことは妙に思えてきた今日この頃)」をつなげる可能性があるという点で、それこそLimの言うようなTransnational feature of victimhoodみたいなものが達成されるのかと思った。政治における法学・法廷の重要性みたいな。

あと、国際法の論文だと「まだ確立はされていないんだけど、人権を重視した判決が出るようになってきている傾向はある」みたいなことが書かれていて、これは結構肝なんじゃないかと思った。国際法の重視するものが変わったり、人権をベースにした見方になっていく時に、2015年のReparationで政府レベルでは解決しました、と言う議論はどこまで持ち堪えられて、逆にどのようにすれば「解決した」と言えるのだろうか(i.e.歴史問題を「解決する」の定義自体が変わるのではないか)?

二つ目に面白いと思ったのは、判例自体が「戦時中の植民地主義の合法性」と言うところに結果的に執着する点だ。
Second, the discussion is rooted in the acknowledgement of legality of colonialization. This is because the Japanese government has argued it was legal (while not legitimate) integration, while the Korean government has argued it was illegal, and thus 1965 agreement only deals with the financial and credit-debt issues, not concerning the loss caused by the illegal occupation (Nam 2022, p.475). At the core, this Japanese government’s stance inherits the discourse of the Meiji Japan’s government, which sought to legitimise annexation of Korea according to the international law at that time (Dudden 2005). Hence, it could be argued that the extent of applicability of 1965 agreement crystalises the different understanding of colonial invasion itself, which was not solved in 2015 agreement either. 英語で読んで書いたから途中で訳すのめんどくなっちゃった。

この当時の国際法に照らし合わせた際の合法性・違法性というのは、国際法的議論に帰結しがちな歴史問題に対するアプローチ(と一側面しか主張しない傾向にある市民団体ーそれは「声を反映する」という点で重要なのであるが)よりも理論をやりたいと思って政治学にきた(i.e.法学に行かなかった)背景にもあるのだが、やっぱり合法性・違法性の理解というのが今日の歴史問題における各政府の主張の構築の基盤にあると思うと、やはり理解できねばならぬと思ったのである。歴史学・政治学的な視点からは「歴史問題がどのように政治問題化するか(i.e.何が正しいかよりも、どのように理解されるか)」を見るのであり、私はその方に傾倒しているが(なので、Positivist的な性質を持つ裁判というもの自体が問題を複雑化すると思う)、やはり理解できることは必要である。

国際法やっぱりちゃんと理解したいよ〜〜〜!!!!大学卒業したらニート期間にちゃんと勉強しようと心に決めた。公務員試験の時の記憶じゃ太刀打ちできない。

国際法を国内法に適用する例としてシェルの話が出てきたのはこの文脈である。シェルの話はよく考えたら国際規定を国内に当てはめるという点では逆の矢印(2015年の合意がありながら、国内法廷では矛盾することを述べている)であるが、まあ関係ないこともないだろう。こう、視点は広く持っておこう。

あと、先生が「なんでこのタイミングなのか?」「誰がなんのための目的に始めた裁判なのか?」とか考えても面白そうだね~~と言っていて、私は「どっかで読んで忘れた~~」と思った。

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