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おひとり様メシを異端にするな

孤独のグルメ、という漫画・ドラマがある。井之頭五郎なる独身貴族が、商談なり赴く先々で、一人で飯屋に入っては飯を喰らう。それだけのストーリーがとてつもなく面白い。
独特の言い回しであったり、妙なこだわりや妥協、遠慮や葛藤を経て、さてその飯に満足かどうかなど、色々と見どころはあると思う。
だが、ここで話題にしたいのはそこじゃない。

昨今の流行り病の事情で、今や外食産業が危機に瀕している。
これが僕には解せない。
外食が何故ダメなのか。今こそ外食の時代なのに。
普段と違う道をいき、どこだかのスーパーやコンビニで、家族連れまでいる不特定多数が行き交う場所に行って、誰が触ったかも知れない食材を選び、仕事が終わった後の疲れた体で、夜遅くに睡眠時間まで削って数時間かけて飯を作るのが、果たして健康的で合理的なのか。
違うでしょう、と。
そういう時こそ、しっかり隔離対策された店で、きちんと管理されたプロの飯を、金を払って食うべき時でしょうと。

今こそ「孤独のグルメ」よろしく一人飯の時代であり、時代にあったスタイルとして、大々的に宣伝されていいのではないか。
でも、世間は「外食は控え」になっている。
あまりに理解が乏しい。そして発想が貧弱すぎる。
世間一般だけでなく、権力のある政治家やマスコミ、会社の重役までもが信じ込んでいる、一つの「呪い」がこうさせている、と僕は踏んでいる。

外食とは、会食であるという思い込みだ。

僕は、外でご飯を一人で食べられない人が多すぎるのではないか、と踏んでいる。多くの人は、一人で飯屋に入ることはあり得ない、必ず誰かと行くものだと思い込んでいる。
一人で飯を食い慣れている人からすれば、「何言ってんだコイツ」というべきもので、互いに理解などしてはいない。
その決定的な溝が、「ひとり外食が出来ない理由」としてよく挙げられているコイツが象徴している。

「人の目が気になる」

「他人の目が恥ずかしい」

この言葉を聞いて、ひとり飯のベテランは「そんなもの気にしない」と言うだろうし、その根拠として
「飯屋で人を観察などしない」
と言うだろう。
だが、ひとり飯が出来ない人たちは違う。
飯時に他のテーブルの人を見ては話の種にするし、飯よりも人と話すことを重要視している。コミュニケーションの醸成と言えば聞こえはいいかも知れないが、反対側から見れば余計なお世話であり、趣味の悪い事に思える。何なら、コミュニケーションのベテランがオタク君にいう「人間観察なんて悪趣味だね」というのが丸々返ってきているようなものだ。
飯時に話すのは意識の高いビジネス書にありがちなトレーニングかも知れないが、時代にはマッチしていないし、別の書を紐解けば「飯はリラックスするべき時」として仕事モードから切り替えるべきと書かれているだろう。
他人を笑い物にして食う飯が美味いから、他人にされたら不味いとでも言うのだろうか。

違うだろう。

一人で飯を食うのは自由である。
他人に迷惑をかけない限り、別段何をしても構わない。最低限のマナーというのはあるが、飯を食うぐらい好きにさせろというだけだ。
それが出来ないのは、単に自意識過剰と思い込みのせいだ。

頭が硬い権力者や、マッチポンプと他人弄りの権化であるマスコミに左右されない、一人だけのメシを大切にする時が、今こそやってきている。
ひとり飯こそが、これからのスタンダードだ。

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