深く潜って、そのまま帰ってこんといたろか

文章を書かなくなって随分経つ。書いてみたところで途中で「こんな事を書きたかった訳ではない」とか「言葉にしてみると大した事をただの一つも言っていない、つまらん」といった事をもう一人の自分が言ってくるものだから辞めてしまう様になった。
理由は今も分からない。でも今日は書いてみようと思っている。

僕が高校2年生の頃に僕のほぼ全てになって、その後20代後半まで呪いのように僕を掴んで離さなかったミッシェルガンエレファントのチバユウスケが亡くなった。
著名人や尊敬する人が死んでも僕は何も思わない。ほんっとうにどうでもいい。
作品やその人の残したものが好きなのであって、その人は僕の知り合いでも大切な人でもない。
でも今回だけは心にきている。
多分いつか会えると思っていたんだと思う。
「諸先輩方や知人から聞く人となりから想像するに絶対に苛められるんだろうな、でも一度くらい一緒にお酒飲んでみたいな」と思っていたんだろう。
それがもう絶対に叶わないんだと思うと、なんだか心にぽっかり穴が空いたようだ。
これはきっと恋だ。今でも僕はチバユウスケに憧れて、恋をしていたようだ。
自分がこんなに人に執着しているのが意外だった。
僕はしつこいし、根に持つけど、人には執着しないと思っていた。
ミッシェルガンエレファントはそれほど僕の心の中に未だに巣食っているらしい。
僕はもうミッシェルの真似事の曲も歌詞も書かないけど(20代はたくさんそういうのを作った覚えがある)、確かに事あるごとにミッシェルと比べて大丈夫かどうか今でもやっている気がする。

そうだな、やっぱりここまで書いてみてはっきりと「会いたかったな」と思っている。

人が死ぬのは「良くない」ことではなく、「必要な」ことだ。(ただし「良くない」死はある。世の中から無くなることを切に願う)
死は必要なことなのに、もう会えないという喪失に何故か心はやられてしまう。
仕方のないことを悲しんでも何もならないのに。
こんな無感情な考え方はするべきではないというのは重々承知なのだが、それでも何故こんな矛盾を解決できないまま人間は足踏みをしているんだろうと思ってしまう。
「死」があるから人間は生きようとするのに、近しい人の「死」は人から生きる意思を奪いかねない。
なんだよ、じゃあ独りで生きろってことかよ、馬鹿野郎。クソが。
この無力感が嫌だ。
このまま何かがただただ繰り返されて、僕の人生が消えていくのは流石に怖い。
チバさんくらいおっきな傷跡を僕だって、世界に残したい。
会いたい人にも会えず、僕はまた自分がちっぽけに思えるよ。
ちくしょう。死なないでくれよ。会いたかったなあ。

もう寝るさ。クソが。
明日起きたらこんなクソったれな気分は終わりにしよう。
これからずっと寝れるなんて羨ましい限りだよ。
おやすみなさい。

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