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達人と鉄人【100日間エッセイチャレンジ】

その道を極めた者の言い方は様々ある。
達人、名人、匠…などと言い出したらキリがないほどだ。

達人とは、学問や技芸など、ある方面において非常に優れた人のことであるが、名人は他者との比較で優れている者を指し、達人よりも狭い概念の言葉であるようだ。

また、匠は木工そのものや木工職人を指し、次第に一般的な職人や、技術に優れた人を表すようになった言葉のようである。

だが、私はこれらの言葉に並んで、「鉄人」という単語も浮かんできた。
何なら、達人とはまた違った、圧倒的な凄み、揺るがない信念までをも感じる表現だと思っている。

おそらくその昔、一流の料理人達がその腕前を競う「料理の鉄人」というTV番組の影響が大きいのかもしれない。
ただ、私自身は番組の存在こそ知っていたものの、ごく幼い頃に放送されていたことから、番組の内容そのものはさほど記憶にはないのだから、おおよそ不思議な話である。
やはり私は、こんな頃から料理への憧れが強かったということなのかもしれない。
番組タイトルのインパクトだけで、「鉄人」に漠然とした羨望の眼差しを寄せてしまうほどに。

先月、中華料理の巨匠、陳建一氏の訃報を耳にすることとなった。
私のみならず、「料理の鉄人」と言えば、この陳建一氏を頭に浮かべる人も決して少なくないはずだ。
私の場合、番組をほとんど見ていなかった自覚があるのにも関わらず、この有様である。

事実、陳建一氏は中華料理の鉄人として、挑戦者を迎え討つ存在として立ちはだかっていた。当初、陳氏は番組出演に当たり、料理対決、という趣旨に違和感を覚えたという。
何故なら、料理は人を幸せにするものであり、競い合う手段ではないから。
全くもってその通りだと言うしかない。

だが、世は空前のグルメブームだったことや、陳氏のスタッフの後押しもあり、6年間番組で鉄人を続けることとなる。

陳建一氏との闘いを経て、その後活躍した料理人達も少なくないようだが、企画段階から批判の多かった番組がきっかけで、料理人の地位やイメージが良い意味で大きく変わったという声もあるようだ。

番組終了後から数年、この料理対決番組は2度ほど復活させているそうだが、かつてのような勢いはなく、すぐに打ち切られていると聞く。

現在は、健康志向も強まり、高級食材をふんだんに使った一流の高級料理が必ずしも喜ばれるとは限らない。
日常の家庭料理、すなわち、時短で栄養バランスにも配慮したものへの関心もより強まっている。

「人々を幸せにする」のが料理の主目的だとする鉄人の信念からしても、昨今の風潮が間違っているとはとても思えない。

以前、私は建一氏の父、建民氏のドキュメンタリーを見たことがある。
建民氏は最早達人、鉄人の概念を乗り越え、「料理の神様」とまで呼ばれるような存在であった。建一氏も生前、父を「天才」だと称賛するコメントを実際に聞いたことがある。
規定の概念にとらわれず、いかに人を幸せにするか。
それを常に考えていたが故、麻婆豆腐やエビチリなど、日本人の舌を喜ばせる中華料理の発明に至ったのだろう。

料理に限らず、全てにおいて、
「人を幸せにする」
ことが、我々の人生における、最大かつ最終目的と言っていい。

達人や鉄人と呼ばれるような人たちが、世間で脚光を浴びるに至っているのは、決して己のためではなく、他の誰かを幸せにするため、という信念が滲み出ているからに違いない。

私もまた、彼らを見習って、ひとつひとつのことに対し、
「目の前の誰か、遠くにいる誰かを幸せにする」
ための行動を一つひとつ、丁寧に積み重ねていきたいと思っているところだ。

願わくば、陳建一氏の料理を実際に食べてみたかったというのがまたひとつ、悔やまれることになってしまった。
何とも、寂しいことである。

明日のタイトルは
血にまつわるいろいろ


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