食う寝るところに住むところ【100日間エッセイチャレンジ】
寿限無 寿限無 五劫のすりきれ…
親が願いを込めすぎたあまり、子どもの名前が長くなり過ぎてしまい、親の願いとは裏腹にかえって色々な場面で不便になってしまった…。
名付けも子育ても、結局何が正解なのか、分かるようで分からないのが世の常である。
ただ、現時点で私が思うこととしては、
子どもに過剰な期待を寄せないことは大切であるようだし、何が正解か、を敢えて考えるのだとしたら、子どもの頃に自分がされたり、言われて嬉しかったことは概ね正解、その逆も然り、といったところであろうか。
ただ、やはり自身と子どもは別の存在であることは常に考えなければならないのが、難しいところだ。
自分が嬉しかった言葉や行いでも、子どもにとってはプレッシャーになってしまうかもしれない。
そこはやはり、目の前の子どもと、子ども時代の自分を重ね合わせすぎてはいけないし、常に匙加減が求められている、ということに尽きるのだろう。
でも、子どもの頃に自分が掛けて欲しかった言葉や、してもらいたかったことは、積極的にやるようにしている。
子どもの反応を通じて、(あ、自分は本当はこう言ってもらいたかったんだ、やってもらいたかったんだ、と思わぬ形で気付かされたりする。
つくづく、子育てとは不思議なものだなと思わされる。
さて、何も子育てのみならず、タイトル通り、自身や家族の衣食住を確保することは、人生において大切なテーマであるが、何を食べ、何を着てどこで人生を送るのか。
日々の生活に忙殺されていると、そういったことを主体的に考える暇がどうしても目減りしてしまっているような気がする。
思えば、私自身はとある地方都市で生まれ育ったが、大学で地元を離れるも、Uターンを経て、再び地元の同じエリアの地を踏む事となった。
地元に特別な愛着があったとは思えないのだが、気づけば私は「帰る」ことを選択していた。
その判断がなければ、今こうして子どもたちにも会えなかったことは間違いのない事実だ。
だが、私は年々冒険をしない、思い切った事をしない方に舵を切ろうとしていることに気づき始めた。
それ自体、決して間違いではないのだろうが、これで良いのだろうか、とも思い始めているのが正直なところだ。
子どもという存在は、意識せずとも親や祖父母の影響を相当に大きく受ける。
私自身が特に、影響を受けやすいタイプだったのだろう。
気付けば今日に至るまで色々なことにがんじがらめになり、「こうでなければ」「こうあるべきだ」が非常に強くなってしまったことを自覚している。
子育てを始めてから、厳密に言えば妊娠を経験してから、そういった自分の「頑なさ」に気づくことができたのだと思う。子どもたちには、感謝しきりである。
どうか、子どもたちには私のように「こうするべき」「こうあるべき」に苦しまないで欲しいと願うことしかできない。
そのためにも、私自身が考えを変えて行かなければならないことは間違いがない。
さて、食う寝るところに住むところ…すなわち安寧の地、終の住処を捜すタスクが果たして今の私に待ち受けているものなのかは未知数だと言うしかないが、どうせなら、もう少し冒険という名の娯楽を楽しんでみるべきではないか、とも考え始めているところだ。
おっといけない、また楽しんでみる「べき」などという大それた言い方をしてしまった。
人生そのものを愉しむには、私にはまだまだ修行や鍛錬という名の「脱力」要素が多分に必要とされているのかもしれない。
将来、子ども達に窮屈な思いをさせてしまわないためにも、今の自分にできることは、まだまだ、山のようにあることは自覚している。
当たり前のことほど、とても難しい。
まずは、食う寝るところに住むところ…。当たり前のことに向き合って、QOLを上げるところから始めることにしよう。
明日のタイトルは
結局、そういうこと
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