見出し画像

詰んだ、完璧に詰んだ【100日間エッセイチャレンジ】

「お前はもう、詰んでいる」
と、北斗の拳よろしく告げられようものなら。
私はもう、「ははあ」とその場にひれ伏すより他に、選択肢がないであろう。

それほどまでに、今の私は「詰んで」いる。

ここまで書いておいて何だが、詰む、という言葉はおそらく、詰み将棋から来ているのだと思われる。
王将の逃げ場がなくなり、実質ゲームが「終わった」状態を「詰み」ということから、転じて、物事が行き詰まり、手の施しようがなくなった状態、俗に言うオワタ、を示しているということのようだ。

何度でも言うが、まさに今の私、のことである。
このエッセイチャレンジ、既に「詰み」状態といっても過言ではないのだ。

一度でも楽を覚えると、とことんまでダメになってしまうのが人間である。

最初から順風満帆とも行かなかったエッセイチャレンジだが、すぐに行き詰まり、スランプが訪れた。
チャレンジ10日目以降には、構想、執筆がその日中に間に合わなくなってきたのだ。

ある時、このnoteは下書き保存をした日時が最終的な投稿日時として反映されることを知ってから、私は、下書き記事をストックすることを覚えてしまった。
具体的に言うと、タイトル本文を適当に入れたものを公開して、すぐに下げる。
こうなってしまうと、光の速さでストックの蓄積が出来上がっていってしまった、というわけである。

ちなみに、少し前に全盛期を迎えていたmixiでも、私は当時毎日日記の更新を自分に課していた。
そしてこのmixi日記も、noteと同じように、下書き保存で日付をキープできる仕様だったと記憶している。
今回私の覚えた「楽」が、どうにも過去に覚えがあると思っていたら、やはり私は同じことをしていたようである。

しかも、更に具合の悪いことに、私はどこかのタイミングで下書きを一瞬公開するのを忘れてしまったのだと思われる。
これにより、連続投稿記録も途切れてしまうこととなった。

そう、100日間エッセイチャレンジは、この時点で強制終了の危機に追い込まれたのである。
もう、このまま諦めて終了することも、何度も考えたほどだ。

だがしかし、今の私にはどうしてもそれができなかった。
いつだって、諦めることは簡単だ。
私の場合、期待してくださっている読者さまがいるわけでもない(それでも時折スキをいただけることに驚きを禁じ得ない)。
よって、完全に自己満足の世界でしかない。

それでもやっぱり、諦めてフェードアウト、という決断はどうしてもできずに、今に至る。
まだまだリアタイ投稿に追い付いてはいないものの、それでもひとつひとつ、記事を仕上げている最中だ。

「諦めが悪いこと」
は、私最大の短所かつ長所ではないかと思っている。
思えば私はこの諦めの悪さ―とてもよく言えば粘り強さとでも言うのだろうか―を駆使して、さまざまなことを達成してきた。

諦めが悪かったからこそ、最終的に巡り巡って欲しいものが手に入ったり、何らかの目的を達成できたり、違う世界が見られたりしたわけだ。

だから、まるで折り紙で作る輪飾りのように―今風に言うならガーランドであろうか―ある種の成功体験を積み重ねるに連れ、私の諦めの悪さは連鎖、延長していくこととなった。

いつの世も、成功体験は人間をより強固なものにしていくらしい。
だから、今の私は滅多なことではへこたれないし、諦めることもない。
それが、どんなに周りからは泥臭く、カッコ悪く見えたとしても、だ。

ところで、様々な事情により、私はmixiアカウントを全て削除している。
考えてみればこの当時、私は(ボテボテながらも)100日を遥かに超える連続投稿をしていたはずなのだ。
少なくとも、2年間は毎日日記を書いていたと記憶している。
だから何か変わったかと言えば…。

それに関しては確かに、思い当たることが確かにひとつだけあるような気がしている。
だから、詰んでいると分かっていても、何も変わらないだろうとしても。
やはり今回も諦めるわけにはいかないのだ。

明日のタイトルは
テンガロンハットに憧れて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?