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マイナー映画のすゝめ

映画館でマイナー映画を見るのが好きになった。数多の動画配信サイトで映画を身漁っていた日常を送っていたのだが、どこか見尽くした感が芽生えてしまい、全ての動画配信サイトの契約を解除した。その代わりに、映画館に出向いて映画を見にいくことを初めてみた。自分の姿を俯瞰して見た時、寝転びながらパソコンの画面と対峙するよりも、それなりの身支度をして映画館に出向く方が絵的に良いと思えた。
選ぶ映画は、有名人が主役になっているようなものではなくマイナー映画を好んだ。なぜなら、有名人のバックグラウンドが内容理解の邪魔をすることと、ありがちな脚本であるかもしれないという懸念を避けたかったからだ。(あくまでも懸念であり、有名人が出ている映画でも斬新で面白いものはたくさんある。)そして、ネットで軽くあらすじを調べ出向く。見た具体的な作品はここではあげない。

マイナー映画の魅力だけを、かいつまんで書く。一番の魅力は、役者の全力さ。魂のこもった演技。これに尽きる。私は映画館で泣くことが多いが、内容に泣くのではなく役者の全力な演技に感動して泣くのだ。映画の中は、私の日常より劇的で、なぜか人間のリアルに触れることができる気がする。これは私が非リア充だから、そう感じてしまうのかもしれない。
が、現実では得られない狂気を伴うほどのリアリティと人間味が私の胸には刺さるのだ。上っ面の笑顔や忖度は日常だが、それは皮肉以外で映画に登場しない。(ことが多い。)それがいい。実生活で全員が全員、感情剥き出しの真人間だとしたら私のようなHSP種族は疲弊するだけかもしれないが、それでも映画で出てくるような真人間を現実で求めてしまうのはどうしてだろう。そして、そんな人間がいないことを現実で確認したのち、映画館に戻ってきてしまう。現実逃避として映画を使ってしまっている自分を認識する度に、映画を抑制する期間があったりもした。が結局、期間が空いても戻ってくる。それが、映画だ。


映画の登場人物の中で毎回かっこいいと思える1人が存在する。その人を見つける度に、私もこんな風に生きれたらと鑑賞直後思いを巡らせる。しかし、生きてきた環境・生まれ持った容姿の違いから「こうなるには」の明確な解答が生まれないのがオチだ。それでも、他人に対して「素敵だな」と思う感覚は持ち続けたいと思っている。これは、「他人への期待」を映画鑑賞という娯楽を通じて満たしているのかもしれない。
基本的に他人への期待は、返ってきた時は嬉しいが、そうではない時は人に失望する。プラスよりもマイナスの振れ幅の方が大きい気がしてならない。なにかしてくれる感謝よりも、してくれない不満の方が何故か心に残ってしまうのは人間の性なのだろうか。
映画の中の利害関係の生じない他人の生き様は、胸糞映画以外は自分の心にフィットし、そして嫉妬することよりも単純に憧れを抱くことが多い。だから、映画鑑賞は他人への理想を保持し世界に期待する状態を維持するのに役立つ。これが現実逃避と言われてしまえば、それまでだが、それでも失望するよりも夢を見ていた方がずっと良い。

他人と自分との距離感がいまだに調整できないが、現実逃避も上手く日常に取り入れれば、意外と精神(感情)安定すると思った。さぁ本日も休日だから、軽く映画を見に出かけましょうか。

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