- 運営しているクリエイター
記事一覧
ラジオやアニメや母との日々(1980年代)
今から40年以上も前、私は山の手線の中で考えていた。
「来年の春には就活するかなぁ…」
17歳で父が逝き、母のおかげで私立の高校を出て、エレベーター式短大には奨学金とアルバイトでなんとか卒業し、さらには母や周囲の人の反対を押し切って、現在の「ライターズスクール」(日本脚本家連盟)に半年通いながら、有楽町のラジオ局にショートショートのラジオドラマ原稿を持ち込んでいた。勿論、アルバイトの掛け持ちをし
ラジオやアニメや母との日々(80年代③)
デビューの頃のドタバタは「線」ではなくて「点」で覚えている。そう、
いろんな事をやらせて貰っていたので、「電リク」(分かるなかぁ)の電話対応でレコード室に走ったこと(この頃はレコードざんした)。携帯電話なんぞないから、無線で中継車と繋いで初めての時「何言ってんだかわっかんねーだろ!」と怒鳴られたり、提クレ(提供クレジット)すらまともに書けずにアナウンサーにどやされたり…。どやされたことは覚えてい
ラジオやアニメや母との日々(80年代④)
「頑張るので、しばし食わして下さい」
と、まだ仕事をしていた母を拝み倒して、有楽町ラジオ局から理不尽出禁を食らって、1年経たずした二十台半ば折り返し前の私、まだギリギリ十代の弟と何故か亡父の仏壇の掃除をしていた。亡父の命日が9月だったので、それもあったのだろう。因みに父が逝ったのは私が17歳で弟13歳だった。
そこに一本の電話が入った。母の仕事先の偉いさんだった。
「あ、どうも母がお世話になっ
ラジオやアニメや母との日々(80年代⑤)
あの頃は携帯電話なんぞという文明の利器はなかった。せいぜいがファクシミリと公衆電話から操作する留守電でメッセージを聞くくらい。
母の病室に泊まり込んでいた私は着替えに帰るくらいで家にはほとんどいなかった。そこに、師匠から留守電が入っていた。何事かと思って、病院の公衆電話から連絡を入れると
「今、仕事できるか?」
もちろんである。母の事もあって、弟共々、家の屋台骨をよいしょ! と担がなければいけな