孤独とか後悔とか愚痴とか。(重いです)
わたしがきのう観てメソメソしてたドラマの話なんですけど、メソメソはドラマが悪いんじゃないんです。
ちょっと重たい話なんですが、
わたしの両親は、同年代の友達のご両親よりもだいぶ歳上だったし、認知症になるにはちょっと若めな歳でふたり同時に発症したし、つまり、介護だとか施設探しだとかが、まわりよりもずいぶん早かったんです。下の娘がまだ中学生だった頃で。
同居してた義母がパーキンソン病になって、介護が必要になったのも同時期だったので、なんだかとってもいろいろいろいろあった。
それをひとりで抱えてた気がする。全然ひとりだったわけじゃないんだけど、なんか気持ち的にひとりだった。
大変だったとか、辛かったとか、そういうことを言いたいんじゃなくてね。
わたしの両親は一昨年と昨年に亡くなり、義母は施設に入ったって話は、ここにも何度か書いているんだけど。
今、わたしと同年代のひとたちが、親の介護の心配をし始めていて、ちょくちょく話を聴く機会がある。
なんかわたしは、経験者ヅラしてて、急に歳とった気持ちになる。
そんな時に、夫と、わたしたちはもう親の問題はクリアしたからあとは好きに暮らそうみたいな話をした。それはそれでとても明るい、いいことなのかもしれない。
でも、夫の、「比較的早くクリアできて結果的によかったよね」って言葉が引っかかってしまった。
夫はなにかと、「これでよかった」で片付ける。
後悔したって誰も幸せにならないし、これでよかったよねって言う。
わたしは、そんなふうに片付けられないこといっぱいあるし、もっとできたことがあったなーとか、あの時そばにいてあげたかったとか、後悔ばっかりだ。
もちろんそんなこと考えてたってしょうがない。でも、「これでよかった」は、いやだ。違うと思う。
でもね、そう考えてしまうのは、ないものねだりなんだろうなって思ってたんです。ずっと。
もしも逆に、夫が、過去を悔やんでばかりいたら、わたしはそんなん言っても誰も幸せにならんよって言うんじゃないかなって、思ってたんです。
けど、それは違った。
わたしが引っかかたのは、夫と一緒に頑張ったって思ってないからだ。
「早くクリアできて結果的によかったよね」って言い合えるのは、ふたりとも頑張ったよねー。大変だったよねー。あの時もこの時も。っていうことを共有できてこそなのだ。
あの時もこの時も、わたしはひとりだった。
例えば、義母のケアマネがとても苦手なひとで、毎月面談するのがとても苦痛だと、一回会ってくれと言ったときも、絶対会ってくれなかったじゃん!とか。
わたしが義母をいつ病院に連れてってたかも知らなかったじゃん!とか。
そういう小さなことが積み重なって、わたしはひとりの気持ちだったんだ。
✳︎
で、そのドラマなんだけど、主人公は若いうちから休職までして病気のお母さんの世話を必死にしてて、諸悪の根源みたいな父親のことを、今は結局許して世話している。
そんな素晴らしい娘なのに、お母さんの寂しさに寄り添ってあげられなかったことを悔やんだりしてるのだ。
わたしなんて、父にも母にもなんにもしてあげれなかった。義母にだって。
なのに、ひとりだったとか、なんだかんだ言ってる。
ちいさいよなー。ほんと。
そんなふうに、傷ついた。
最後のね、若い時の自分と今の自分が寄り添いあってるみたいなシーンがとてもよかった。
今のわたしが、あの頃のわたしのところに行って、「きょうもおつかれさん!」(キヅツキ風)って言ってお茶いれてあげたいなって思いました。
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