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愛ってなんだろうニャ?

PSゲームの名作の一つに「どこでもいっしょ」というゲームがある。
簡潔に説明すると、ポケピと呼ばれるキャラクターに言葉を教えたり、教えた言葉で会話を楽しむようなコミュニケーションゲームだ。
本記事のタイトルは、ポケピのうちの一人である井上トロの発言である。


(どこでもいっしょの発売日は1997年7月なので私とはゴリゴリのタメなのである)
(ホント90年代のゲーム大好き)


井上トロはいつか人間になることを夢見ているネコだ。
物心ついた頃にはダンボールの中にいた。トロは捨て猫だった。両親とは既に死別している。
そのうちトロは自力でダンボールから飛び出して、当てもなく彷徨うことになる。
空き地で暮らしたり旅に出たりしていく中で、たくさんの人間と出会い、親切にしてもらい、言葉を教えてもらった。
そうしてトロは人間になりたいと思う気持ちが強くなっていったのだ。

純真無垢で好奇心旺盛。怖がりで泣き虫だけどいざという時の行動力も備わっている。だけど本当は寂しがりやで甘えん坊。恋愛やエッチな話に興味のあるお年頃。人間になるためにたくさんの言葉を覚えようとする頑張り屋さん。
そんな愛おしい存在が、井上トロだ。

そんなトロが、いやそんなトロだからこそふと疑問に思ったのだろう。プレイヤーにこんなことを問いかける。

「愛ってなんだろうニャ?」

私はこの質問に答えられずにずっと生きている。
この問いかけが心に引っかかったまま、今を生きている。
気がつけばそれは私自身の疑問となっていた。


愛と平和が私という世界(人生)のテーマだ。
そしてかわいいと幸せもこよなく好きだ。

私がサンリオ好きなのを知っている人からすれば随分と染まったなと思われるかもしれないが、元からそういう人間なのだ。そういう人生を歩んできた。だから変な言い回しではあるがサンリオとは非常に相性が良かったのだと思う。利害の一致(?)。

愛についてはずっと考えてきたし考えさせられてきた。
我が家は無宗教派であったが、アーティスティックな親によって事あるごとにアガペーとエロスについて説かれてきた。ちょっと変な家庭環境なのだ。


私と愛の向き合い方について。

幼少期からの私は、”全てが愛”だと思っていた。
親から注がれる愛情も今思えば虐待に当たるそれも全てが愛だと思っていた。
もちろん後者については恐怖心ばかりであったが、それを愛だと思うことで私は生きていけたのだと思う。
いや広義で言えばそれらも愛だと言えるのかもしれない。形が歪んでいても愛は愛だから。両親が私を愛していないことなどなかったから。
だけども当時の私は歪んだ愛などではなく、純粋な愛によるものだと信じて疑わなかった。
子供とはおおよそそういうふうに出来ているのだと思う。

思春期に入るあたりから私は疑問を抱くようになった。
それらは愛によるものなのか?
愛があるなら人を喜ばせることはあれど、傷付けることはもってのほかなのでは?
この頃には親以外からも暴力を受ける対象が増えていた。大人になるにつれそれはどんどんエスカレートしていった。
だけど私にとってはその人達がみんな大好きで大切だった。そしてその人達もみんな私のことが大好きで大切だったことを知っている。
矛盾が生じた。
大切なのに何故傷付けるのか?愛さないのか?
それともやはりこれら全てが愛と言わなければいけないのだろうか?
混乱しながらもどうにか答えを導き出した。
当時の私にとって、“愛とは完璧なものでなくてはならない”と思うようになった。
私を傷付けることすべては愛ではない。
私に幸せをもたらすもののみが愛である。
自然と、無意識に、そう考えるようになった。
正直当時はそんな考えの変化に気が付いていなかったけれども。

ここまで両極端な愛の在り方を考えていたが、大人になった今、そうまさに今、また考えが変わってきているのだ。
“愛とは何か、何も分からなくなってしまった“。

(きっかけというきっかけはまぁあるにはあったが)ふと愛から離れてみようと決断をした。
それはある種孤独を意味するし、心身共に傷付くことが減ることを意味するし、愛を感じる機会が少なくなることを意味する。
それが私にとって良いことなのか悪いことなのか、分からないまま行動した。
だけど何かは変わるだろうと思って行動した。
少し…いや本当はかなり怖かったけど。変わることは恐ろしいから。

しかしその結果が"分からない"である。
全て一度に方を付けたわけではないがそれでも数年は経っている。
なのに愛が何なのかなんて余計に分からなくなってしまったし自分自身が良い方向に向いているかさえ未だに分からない。

幼少期に感じた全てが愛だという考え方も、思春期に考えた完璧な愛も、言ってしまえば全て愛だし間違っていない。
もっと言ってしまえば人それぞれに愛の考え方があって、それのほとんど全てが愛だと言えるのだと思う。
真っ直ぐでも歪んでいても、何かしらの気持ちが乗っていればそれは愛なのだ。

そんなことはとうの昔に分かっている。
だけど私が探しているのはそんな一般論じゃない。


私は、私の中にある愛が見つけられない。

「愛ってなんだろうニャ?」

深く突き刺さる。


Twitterでもたまに話すしnoteでも昔記事にしたことがあるが、私は恋愛という概念が好きだ。
他人の惚気話も好きだし、恋とか愛とか好きという気持ちから得られる養分が身体に良いと思っているから。
だから好きなものは多いに越したことはないと思っている。
何でも良い、好きな人でもオタク的なものでも物質無機質なものだって良いと思う。

こと私に関して言えば、愛を与えることが大好きだ。
だからいつもアンテナを張って好きなもの=愛を与えられる対象を探している。

だけどこの間ふと思った。
愛が分からないから、与えることで分かろうとしているんじゃないかって。
同時に、私は本当に愛を与えられているのか不安になった。
もし紛い物だったら、なんだか今までの人生がなくなっちゃうような気がしちゃう。

愛されて然るべきと言われてすごく嬉しかったけど怖くもあった。
愛が分からないから。
愛するの正解が分からないから。
愛されるってどういうことか分からないから。


「愛ってなんだろうニャ?」

もし機会があればみなさんの考えや思いをお聞かせいただきたい限りです。




ちなみにトロはもうすぐお誕生日で、5月6日がバースデーなのでよかったら心の中でだけでもお祝いしてあげてください。




ちなみに私の好きなポケピはリッキーです…。




読んでくださりありがとうございます!! ちなみにサポートは私の幸せに直接つながります(訳:おいしいもの食べます)