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初恋はあの雲のかたち

   ハツネさんはこの頃なんだかおかしいのです。
 小さな頃を思い出しては涙ぐんだり笑ったり、そうかと思えばつい今しがたのことをすぐ忘れてしまったり。
 ハツネさんの好きな事は空の写真を撮る事です。高台にある小さなおうちのベランダから、図書館に行くバスに乗るためのバス停から、ハツネさん愛用のスマートフォンでカシャリと写真を撮ります。
 見上げる空は時間ごとに色が違って、流れる雲は風によって形を変えて二度と同じ形をしたものはありません。
 ハツネさんは、空を見上げていると、心が落ち着くのでした。
 穏やかに晴れた七月の午後、今日もハツネさんは小さな家の小さな庭で、空の写真を撮りました。
 夏の空は高く澄んで、流れる雲は白く輝いています。雲はゆっくりと形を変え、やがて誰かの横顔のような形になりました。
 ハツネさんは、すかさずその雲を写真におさめました。
(なかなか可愛いらしい顔立ちだわ)
 ハツネさんは、ふふっと笑いました。
 その雲の形は、ハツネさんの初恋の男の子の横顔にどこか似ていたのです。
 空の色は相変わらず青く美しく、雲はふわふわと柔らかそうで、ハツネさんは幸せな気持ちになりました。
 ハツネさんはスマートフォンを開いて今しがた撮った写真を見てみました。
 写真の中の初恋の男の子の雲は、今にも喋り出しそうです。
 ハツネさんの初恋、それは他愛のないものでした。転校したばかりでクラスに居場所のないハツネさんに、最初に話しかけてくれたテツヤ君。高校が別々になって、それきりになってしまったけど、今はどうしているんだろう。
  突然の雨に知らないおうちの軒先で雨宿りしていたら、テツヤ君が自転車で通りかかって、一緒に雨宿りしたこともあった。ふたりでなんてことないことを話して、雨が上がったら、テツヤ君が自転車の後ろに乗っけてくれた。自転車の後ろから見る濡れた道路。テツヤ君の柔軟剤の匂いのするシャツの背中。雨上がりの大きな虹。
「あぁ、懐かしいねぇ」
 ハツネさんは思わず大きな声で言ってしまいました。
 その時、驚くことが起こりました。
 スマートフォンの中の初恋の男の子に似た真っ白だった雲の色が、見る見るうちに血色の良い男の子の肌の色になり、目も鼻も口も輪郭も、はっきりとした男の子の顔になったのです。
 そしてそう、それはあの懐かしいテツヤ君の顔でした。
「まぁっ!」
 ハツネさんがびっくりして、口をあんぐりしていると、そのスマートフォンの中の男の子が、ハツネさんに話しかけて来ました。
「久しぶりだね。ハツネちゃん。僕のこと、わかる?」
「テ、テツヤ君…?」
「覚えていてくれたんだね。ありがとう」
「テツヤ君も私のこと、わかるの?」
「わかるよ。ハツネちゃんは全然変わらない」
 テツヤ君はスマートフォンの中から、にこにこ笑っています。
「ねぇ、空を見てみて」
 ハツネさんは空を見上げました。
 いつのまにか美しい夏の青空に無数の泡のような雲が浮かんでいます。
(なんてきれいなのかしら)
 いっしんに空を見上げるハツネさんに、テツヤ君が言いました。
「さぁ、始まるよ…!」
 泡のような雲はニ、三個ひとつに固まったかと思うとまた離れ、変幻自在に動いています。ハツネさんはその美しい動きにうっとりとしました。雲はやがて羽根のある妖精のような形になり、大空でダンスを踊り始めました。
 スマートフォンの中からテツヤ君の口笛が聞こえます。ハツネさんも楽しい気持ちになって、口笛に合わせて手をたたきました。
「すごい、すごいね、テツヤ君!」
「すごいだろう」
「ねえ、あの雲テツヤ君が、あやつってるの?」
「あやつってるっていうか、今日は特別さ。ハツネちゃんが最近、元気がなかったからね」
「ありがとう、テツヤ君。テツヤ君はマジシャンになったの?」
「マジシャンていうよりも、僕は雲になるのが夢だったからね」
「あ、そんなこと言ってたね」
 ハツネさんはあの二人で雨宿りした日、テツヤ君が言ってた言葉を思い出しました。

「僕は雲になって、風に吹かれながら、何にもとらわれずに世界中を見てまわりたいんだ」

 ハツネさんはあの時のテツヤ君の純粋な瞳を思い出しました。。
「さぁ、まだまだ見てみて」
 テツヤ君がまたスマートフォンの中から声をかけました。
 ハツネさんは空を見上げました。今度は細い飛行機雲が縦に横にと伸びています。飛行機雲は何やらアルファベットのような文字を書き出しました。
 ハツネさんは目をこらしました。
「H、A、T、S、U、N、E。……SUKI」
「僕が言いたかったことだよ」
 スマートフォンの中のテツヤ君がはにかみながら言いました。
 ハツネさんはその言葉を聞いて、きゅーっと胸が熱くなりました。
「私もね、私も、テツヤ君…」
 ハツネさんが言いかけたその時でした。
 あれほど明るかった空の色が見る間に暗くなり、あっという間に雨雲に覆い尽くされました。
 ハツネさんが驚いてスマートフォンを見ると、テツヤ君の顔も灰色でどろどろにゆがんでいます。
「テツヤ君…テツヤ君…!」
 ハツネさんが叫ぶと、テツヤ君はかすれた声で答えました。
「ごめんね…、ハツネちゃん、怖い思いさせて。最後に会えて嬉しかったよ」
「最後って、どういうこと⁉ テツヤ君…テツヤ君…!」
 雨雲から大粒の雨が落ちて来ました。遠くで雷の音が聞こえます。
「あ!」
 稲光りがした瞬間、バリベリバリッとものすごい音がして、テツヤ君が映っていたスマートフォンの画面も消えてしまいました。
 ハツネさんは何が起きたのかわからずその場に立ち尽くしました。
 しばらくしてスマートフォンを見てみました。
 画像フォルダの中には、テツヤ君の横顔に似た形の雲の写真があるだけです。
 ハツネさんは涙が出そうになりました。だけど、涙をこらえて、スマートフォンの検索サイトを開きました。
「中垣徹也」忘れもしないテツヤ君の名前を検索してみました。
「旅する詩人 中垣徹也さん(61歳)落雷死」
 ネットニュースにはそう載っていました。
 記事の中には、テツヤ君の言葉が紹介されていました。
『子どもの頃から雲になりたかった。雲になって世界を見てみたかった。今こうして詩人になって世界を言葉でとらえる仕事をしている。言葉の前にも後にも想いがある。いろんな国を旅して思うことは想いが世界を動かすということだ。想いにまさるものはないんです』
 ハツネさんは泣きました。テツヤ君はその想いで私にあんな素敵なファンタジーを見せてくれた。そして、少し子どもっぽいけど、精一杯の告白をしてくれた。
 泣くだけ泣いて、ハツネさんはスマートフォンの画面をまた見ました。テツヤ君に似ていた雲の画面です。
「テツヤ君、テツヤ君」
何度呼びかけても雲は雲のままです。
 ハツネさんは空を見上げました。あんなに雨雲に覆われていたのに、いつのまにか真っ青な夏空が広がっています。雨上がりだからでしょうか。優しい風が吹きました。真っ白な雲の塊がゆっくり近づいてきました。やがてそれは白いふわんとしたハートの形になりました。
 ハツネさんはカシャリとそのハートの形の雲を写真に収めました。

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