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美人が大嫌い

今日は、書いてみて笑ってしまうくらい、愛と憎しみの対象だった美人、可愛い女への想いを吐き出しちゃってます。読みます?読むなら最後まで読んでね?いいの?いっくよー!w


美人が大の苦手でした。美人は美しい。神々しい。きらきらしている。まぶしい。見てるだけで幸せをくれる。美人の近くにいると、美人が気になって、すごくしんどかった。見てないふりしてそばにいる美人をガン見しながら、心の中ではその美しさを賛美し、同時に彼女にくらべ劣っている自分を罵倒し、蔑まれていることを確信し、いつそれを公の場で宣告されるのかと恐れ慄いていました。

こんな気持ちを抱くようになったのは小学生の頃。クラスの中で明るくて可愛くていつも注目される女の子たち。明らかにそのグループに対する周囲の反応が自分に対するものとは違う。そのような気づきが、わたしはあの子たちとは違う、あの子たちが特別扱いされるのは可愛いからだ、わたしが特別扱いされないのは可愛くないからだ、という刻印になりました。

あの人、きれいやなあ。あの鼻のかたち。唇の上向きかげん。まつ毛の長さ。瞳の大きさ。うわあ。いいなあ。あんなんやったら、悩みとかないんやろなあ。みんなに好かれるんやろうな。いいなぁ。

きっと、美に対する感性が人よりも少し優れていたのかもしれません。誰もが美しく見えました。どのような人にも、美しい部分があります。美しいものであふれている世界。それは素敵な場所のようで、そうではない自分を責める、針の筵のような場所でもありました。思春期特有の、他と自己の姿をくらべて幻滅することと、親ではない誰かに愛されたいという願いから、はじめは小さな憧れと劣等だったものが、こじれていきました。

夫の高校時代の友人にも、彼の奥さまが美人!というだけで緊張して会いたくなくて、なんとなく誤魔化しているつもりでも、気まずさを誤魔化せないでいたら、いつの間にか疎遠になりました(自分が会っていないだけで夫は友人と仲良く野球観戦などしているらしい)。

とにかく美人だというだけで緊張する。美人。それは選ばれしもの。世界の勝者。すべてをひれ伏させる魔物。ええとこどりの悪魔。自分がそうでないことをはっきり突きつけてくる存在。

ただ憧れの対象であった美人の存在を、いつの間にかそんなふうに位置づけてしまったわたしには、ママ友と呼べる存在はゼロ、でした。交流がなかったわけではないのです。お呼ばれして持ち寄ったご飯を一緒に食べたり、したことも、あるんですよー!数回やけど。だって、だって、美人はどこにでも出没したのです。ママ友という存在もまた、美人の集まりでした。専業主婦の方々は耳や髪にきらきらしたものをつけて、楽しそうに子どもの活動に参加しながら、適度に今のファッションに身を包み、いつも集まって何かしらお喋りして、全員知り合いみたいで。お仕事しているママさんたちも、短い時間をやりくりしながら子どものことにも熱心、コミュニティもしっかり作っていて、何でもできて賢くて学校の廊下を堂々と歩いて。みんな、すごくて、美しいし、可愛い人ばっかりだったんです。

さて、このすさまじい劣等感の羅列がどこまで続くのか、お付き合いして下さっている方もうんざりしてきたことでしょう。長年に渡っての、愛憎入り混じる美人への想いは、ブスの僻み…なんていう言葉では片付けたくないほど、ずっとわたしを縛り続けてきました。いま現在のところ、美人に対しての認識は変わったのか?

そう、今では、いつの間にやらわたしにも美人の友人(!)ができ、美人にも美人ならではの苦労、わたしと同じ悩み、同じ生活などなどがあることを知って、一方的に愛し憎む対象ではなくなりました。ひとの美しさが、わたしが勝手に決めつけていた、美人というオリジナルのカテゴリーにとどまるものではなく、美が造形のみに宿るものでもないということも知りました。

そばに美人が来ると、多少身構えることもありますが、いまやじっくりと、美人をただただ愛でる余裕さえ身に付けたのです!そして、そんな自分にとって美人は変わらず憧れの存在。やっぱり来世は、誰もが目を蕩けさすような美人に生まれてみたい。ほんま、頼むで。

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