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日記4月9日 ブレインロックを意識して、外してゆく。


知らない間に持っている「思い込み」がある。

普通こうだろう、とか、こうしなければいけない、とかいわゆる「みんなはそうしているだろう」というやつだ。

これは勝間さんに言わせると「ブレインロック」となるだろう。

ブレインロックがいけないところは、どこか心に一抹の「不平」や「違和感」がありつつ、従っているところだ。そして普通はこの違和感に正面から向き合っていない。

向き合うことをさけているわけではない。自然とむきあわないのだ。

不思議なことだが、いちいち考えていては脳のメモリーが持たない、と思っているのだろうか。だが、住宅ローンといっしょで、普段忘れているようでも、心の0.0001%の負荷を喰っているのだ。

そして「負荷かかっているなあ」という思いもまた、別にある。こちらも0.001%くらいかもしれないが。

ということで、このブレインロック、百害あって一利くらいしかないのだ。

一利もない、とまではいえないのだろうが。

で、このブレインロック、意識しないと心の標準装備のような顔をして隠れている。擬態、というやつだろう。人間ならこうしますよー,的擬態だ。常識、という言葉とも似た気配だ。

それを見つけて、正面から見据える。外すのはロック、擬態だけでいい。外して、見つめて、そのまま改めて採用したければしてもいい。まずは外すことが重要だ。

今朝気づいた私のブレインロック。

「図書館で借りた本は期間内にできれば読み切りたい」だ。

最近の図書館のサービスはいろいろ進歩しており、ネット予約、メールでの確保連絡、他館含めての検索、電子書籍のレンタル、自身での借り入れなど、基本便利になってきていてありがたい。

いらなくなった本のリサイクルも、棚に置いておけばいいだけである。

私は電子書籍化を進めよう、と思っているのだが、あまり進まない。森博嗣さんも、勝間和代さんも大変おすすめされているのだが。なぜだろうか。多分一人になる時間が少ないのと、歩くときにポケGOをしているからだろう。

ポケGOをではやめればいい、というご意見もあろうが、これによりいままで歩いた距離はカウントレスであり、そのことで健康増進が大変に進んだ、歩く癖がついた、と思っており、ゴプラも勿論利用しているので、これはなかなかやめられない。

ということで、電子書籍化されていても実際の本を図書館で借りることがいまだ多いのだ。

最近は高橋巌先生関連のシュターナーや美学の本を読んでいる。これは絶版も多く、図書館でなければ読めない、というケースも多いのだ。

そして、これは、という本を6冊かりて、2週間。延長入れて4週間。とても読めない。浩瀚な、深い思索に溢れた本だと、1冊4週間でも無理だ。

で、これがストレスになっていたのだ。

「せっかく借りたのに読めなかった」

という半ば無意識なネガティブ感情である。


だがせっかく素晴らしい書籍に接して、ネガティブ感情を持って返却する、ということでいいのだろうか。

最近そんなことを感じていたのだ。なんとなく、言語化されていたわけではないが。

それが「ブレインロック」の一種ではないか、と今朝気づいたわけだ。

そうか、「借りた本はよまんともったいない」ロックがかかっていたなあ。


これである。


このロックに正対すると、

いや、もし読み切れなくても、一旦返してすぐに予約すれば1週間後にまた借りれるやんか。

ということが浮かんでくる。

本がそうこうしているうちに廃却されたらどうするんや。

あらたな「ロック」が浮かんでくる。


いや、この時代こうしていま図書館にある本であれば少し古くても結構評価が定まった本である。あるいは「ある層に熱烈に支持されている」本である。

借りている履歴も残るだろうし、頻繁に借りれば廃却されにくいのではないだろうか、このWEB時代の「履歴」効果で。

と思える。また

それくらいの本なら、定価2900円だったものなら、中古価格最高で1万円くらいで手に入る、最悪。

ということも浮かんでくる。アマゾンやメルカリで結構入手しやすくなっている。メルカリでBOOKOFFも出品しているのだ

日本の古本屋(だったか?)というサイトで探すこともできる。

そう割り切って、「慌てて読んで全然頭に入らなくて余計に嫌悪感で一杯になる」というブレインロックによるストレスを、解消していこう、と思っているところだ。

完全には外せないだろう、だが、

「敵の姿をありありとみれば、対策も具体的になってくる」ということだろう。


本を読んで思うのは、作者の魂との一期一会、作者がその本を描いたときの魂は同じ作者であっても、その時だけのものである、ということだ。若い時の自身が、他人のようであるのと同じことだ。

そうした稀有の魂の邂逅、1対1の魂での会話、

本というものは、そういう意味でなんとも素晴らしい。

まあ、美術作品でも同じであるが。


集団で作ることを否定するわけではない。だが一人きりで、何時間も、何日も、何年もかけて作られた作品(本でも美術作品でも)と対峙するとき、自身がいきてこの生にあることの奇跡と相まって、なんとも霊妙な感じになってくるのだ。

ああ、ありがたいなこの瞬間は。。。


言葉にすれば、そんな感じだろうか。

(いやあ、大げさになってすみません。。。)








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