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日記4月29日(木)。 #日記  自己陶冶。

昨日は3人で歓送会を行った。コロナにより普段の会社での飲み会はほぼなくなったが、人を送るという行為は、当然実施できる日時は限られる。

歓送会の為に新しい店を開拓した。長く営業畑であった所為で、飲み会といえば仕事の一部、という感覚が根強く染みついている。なので、自身の楽しみで飲む、ということが全くないわけではないにしろ、ほとんどなかった気がする。

このコロナで会社での出張や飲み会はなくなり、たまに一人で会社帰りに少しだけ飲むことがある。実は大体がサイゼリアだ。ワイン250ml200円。200円というのはとても安い気がする。250mlあればまあまあ酔っぱらう。

つまみ?はチキンかチキンサラダだった。タンパク質摂取のため、外食ではだいたいチキンを選んでいる。牛丼屋でもチキン丼なのだ。

だが、チキンの付け合わせのコーンやポテトや、焼いたものだと活性酸素(でしたっけ??)がある、という記事を読んでから、焼いたチキンは避けて蒸したチキンが乗っかっているチキンサラダをできれば選ぼうかな、と思っている。

先日すこし久しぶりに行ってみた。消費税を内税で表示するように変わり、メニューも変わったようだ。内税で表示すれば、実質値下げになるのだろう、定番のチキンサラダ2人前が無くなっていた。

かわりのサラダLサイズ500円を頼んでみた。ん?量が少ない??チキンがあんまり載っていない。パンが乗っている(グルテンフリーを目指しているのに泣)。ブロッコリーも少なくなった。

前のメニューはあきらかに多人数で取り分けるようになっていた。これはただのLサイズ。すこしだけ、がっかりした。サイゼリアでは大体が安くてびっくり、なのだが、値上げでがっかり、というのは初めてだ。やはりコロナで損益が悪化しているのだろう。まあ、前向きに考えて、通常サイズを2皿頼めばいいのかもしれないが。デフレが日本経済にとってイカン、という言説を見るたび、値段が下がってなにがいけないのか(言っている意味はわかるが)、と感じる私にとって、やはり値上げは悪、なのだ。

自己陶冶、について。

しかし、ごく短いタイムスパンでしかものを考えられないという縮減された時間意識になじんでしまうと、もう人間的成熟ということそのものが望めなくなる。「自己陶冶(とうや)」というのは、長い時間をかけてじっくりと己を熟成させることです。過去を振り返り、未来を遠く望み、今ここで自分は何をなすべきかを熟慮する。もっと成熟した人は「世界の始まり」から「世界の終わり」に至る広漠たる宇宙的な時間の中に身を置くことさえできる。己の一生が一瞬に過ぎないこと、己が踏破できる空間がけし粒ほどのものに過ぎないことを覚知して、そのはかなさ、卑小さの覚知を通じて、自分は今ここで何をなすべきかを考える。それは時間意識が四半期にまで縮減した人には無理な話です。
内田樹 週刊文春 4月9日号より

自己陶冶、ということばは、普段あまり耳にすることはない。冶金、と言う語が浮かぶ”冶”という言葉自体が、あまり使うことがない、難読語である所為かもしれない。

だが表意語である漢字の、便利さや奥深さを感じる言葉でもある。陶冶、と書かれている文字をみるだけで、陶器や冶金のように人格をじっくりしっかり作り上げる、という意味が即座に、かつじわりと理解できるのだから。

出来上がった陶器の美しさを思う。私の場合は差し込み口が複雑になった白い陶製花瓶、を思いだすようだ。藍色で、鳳凰の図案が入っているような。人格がそのような花瓶の象徴されるようなものであったら、と願うような気持ちにもなる。

内田さんの言は、そうした人格の陶冶を、求めることが困難になり、無くなってきた最近の精神事情を嘆かれるものだ。ミリ秒きざみの生活が、地球規模のスタンダードになってしまった人間世界への懐疑と警鐘だ。

チャップリンは”愛と勇気と、サムマネー”と言った(たしか)。人は最後の”サムマネー”を得ることが心配となり、実際にそれは簡単なことであるはずもなく、その確保に必死とならざるを得ない。通常すべての人がそうであろう。だが必死になってしまうと、心もすべてそれにつぎこまざるを得ないのだ。だから、愛も、勇気も、下手をすれば忘れてしまうのだ。

内田さんがおっしゃっていることと、チャップリンが言っていることは、どこか通底しているような気もする。愛と、勇気と、そして”サム”で満足できる、いわば”知足”の精神さえあれば、ということなのだろう。

人々がそんな気持ちを持ちあえるような世界を、内田さんやチャップリンは提案されているような気がしている。

(せっかくうまれたのなら、できるだけいろいろ考えたいですね)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。