日記9月20日(月) #日記 あたらしいこと。
今朝の体重62.7kg、体脂肪は5.6%。昨日はほぼ家にこもりっきりであったのだが、ぎりぎりアブローラー30回と器具腕立て10回だけはやった。
「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」
須永朝彦小説全集 1997年 国書刊行会のパンフレットに「幻影の肖像」と題して須永が森鴎外の言葉として記しているものだ。
人にどう見られるか、ということを意識することは、つくづくむつかしいものだと思う。
それを意識すると、その評価に阿るものとなりやすい。相手が好むように、ということにがんじがらめになるということだ。
だが、それを全く意識せず、自分の書きたいもの(描きたいもの)をかく、ということは、うまくいけば絶離の傑作をものすこともあるだろうが、失敗すればひとりよがりで、だれも振り返ることのないものとなる。いや、ふりかえられることが果たして必要なのか、という根本的なところはあるが。そう、まずは表現せよ、というやつだ。
こうして日記と称して、皆様の目に触れるものとして書くことは、日記が個人的なものを主に指すのだとすると、そもそもが矛盾の産物だ。日記と称することで、あるいはそもそも阿りを含んでしまっているのかも、と思う部分だ。
それも含めて、まあ、いろいろあるだろう、と思わせてもらえることば、それが例えば須永が依って立つ鴎外の言葉となる。そう、小説は自由なところにいていい、と鴎外の喝破はちからをくれる。
だが、自由、ということはすくなくともなんらかの新しさ、新しさとはつまり「なにかの、あるいは誰かの」コピーを作ろうとしないこと、でもあるだろう。結果としてなにかに似ていることはあるのかもしれない。それは各人の趣味が時に非常に似通っている場合があるのと同じようなことかもしれないが。
たとへば吸血鬼譚ー私は永遠(とは)に死を生きる美貌の吸血鬼の物語が読みたかつたが、従来の吸血鬼譚は悉く吸血鬼退治譚であり、登場する吸血鬼もまた美しき者は稀であつた。事情は、天使や闘牛士や化生や夭折者の物語に於いても同じであった。
同じパンフで須永が自身の創作の動機といったものをこう述べる。正直にいえば、すこし隔世の感がある。「インタビュー・ウィズ・バンパイヤ」や麗しきダンピールDの物語群を思い出せば、いまや吸血鬼と言えば恐怖を支配する上品で麗しきものの群れ、という感すらある。あるいは須永の思いがそうした状況を生むひとつのきっかけであったのかもしれない、とも思うのだが。
また闘牛士や化生については同感だが、そも天使とは常に天上の美の体現者ではなかったか、という微かな疑惑ももつのであるが。
恐ろしきもの、を恐れる楽しみ、という嗜好の傾向が過去に存ったように思う。エロチシズム、グロテスクとは距離を置き、「醜さ」を単純に楽しむ気風、とでもいおうか。私の中にそれはない。例えば昭和ライダーの末期の怪人たち。滑稽さを求めているという気がするのだが、どうにもすきにはなれないのだ。真面目にデザインしているのか(いや、スポンサーの意向に沿っていたであろう、怪人デザイナーの方に文句はないが)という気がする。だがそうした「稚拙なもの=美しくないもの」を鷹揚に楽しむ文化が、あるいはあったのであろうか。
わたしは、いやわたしも、それは我慢できない。須永に、大きく同意するところだ。
だが一回回って、美しさをすべての基準とする、という現在は決して少数派ではないと感じる傾向に敢えて背を向け、「幼稚な稚拙さ」計算された「美しき幼稚さ」ではない、真からの稚拙さ、というものを、今は少し見てみたい気もする。多分、多くは、要らないが。
(真善美、で美を至上、と感じる感覚。今は少なくない、と勝手に言ってますが、もしかするといまだそれほど多くもない気も実はしています)