日記6月13日(日)。 #日記 ゴリっつぱち。
ゴリっぱち。
そのあだ名が頭を離れない。
尼崎事件での首謀者、角田美代子の学生時代のあだ名である。
最近、この事件に関する本を2冊、立て続けに読んだ。なんといったらいいのかわからない、しんどさがある。
怖さも、あるだろう。
尼崎は、私が幼稚園入学前に、住んでいたところだ。記憶はほとんどないものの、その場所の空気のようなものを、或いは記憶のどこかで覚えており、近くの場所で起きたこと、と感じることから生まれているのであろう、怖さなのかもしれない。
今は、別の地区に住んでいる。大人になってからの引っ越しなので、この地の文化や空気のようなものは余りわかっていないのだろう。それでかもしれないが、あまり”怖い”という感じはない。
この事件に関する本を読んで、私が子供の頃感じていた怖さ、のようなものを久しぶりに、まじまじと、思いだした、というところだろう。
美代子は恵まれない少女時代を過ごしている。実の親に、ぞんざいな扱いを受けている。例えば子供は、親から”いらん子や”とか”醜い子や”などと言われると、どのように思うのか。魂から、心から、傷つくだろう。魂は、見えない血を、流し続けるだろう。
親は、例えば”ふざけて言っただけや”というのかもしれない。だが、そうした思いがどこかにあれば、出てこないことばであることは、子供は知っている。仮にその想いがあったとして、本人に聞かせる、ということは、どういうことなのか。”親である自分は、子供であるお前のことをこう思っている”ということを、伝えたい、という思いがあることになる。
事実として”醜い”のかもしれないが、そのことを親として、子供に伝える、という行為こそが、もっともっときついことかもしれない。
そして、子供としての弱い立場で、
そのことを聞かずにすます、ことはできないのである。
これらの本を読んで思ったこと。それはこれらの事件を彼女が起こした理由は、ただ、この一言ゆえだったのだろう、ということである。
そのことで、家族に絶望し、家族という関係を憎悪し、それを馬鹿にして超越できる自分となること。
これが彼女の終生の目標になったが為であろう。
どこかで、その想いから、解放されたい、という悲鳴を、日々魂から叫んでいた気がする。だが、誰も解放してくれることはない。自身の手で、解放するしかない。
どうすれば、よかったのか。どうにも、ならなかったのか。
重い読後感と共に、考えている。
(重いです)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。