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9.20 不思議の国への扉。

今朝の体重64.9kg、体脂肪率は13.9%であったろうか。引き続き低空飛行である。まあ、台風もあり引っ越しもありで、運動するにはやはり気持ちの余裕があったほうがいい。

考えてみると2015年の1月に東京で版画教室(版画工房)の門をおずおずと叩いてから、7年以上経過している。その後また転勤で名古屋に戻り名古屋のカルチャーセンターの版画教室に所属した。

両方の教室とも、先生はバリバリの現役銅版画家でいらっしゃり、そのにじみ出るプロの意識に圧倒される。本当のプロ、という人に出会うことはある意味稀有の機会なのかもしれないが、ご縁があるということは素晴らしいことだ。

片山廣子の種々の本を読んでいるが、17-8歳で女学校を卒業すると、やることがなく短歌を学ぼうと「どちらにしようかな」で新進気鋭の神田に居を構えていた佐佐木道綱宅に通うようになる。その時は「佐々木」と称したというが、情報によると「中国に”々”の字がない」ということを知った氏が、それ以降は「佐佐木」と記すようになったということだ。なので、若き廣子が門下に入った際は、「佐々木」と称していたと思われる。廣子の文章にたまに「佐々木」という表記が見られるが、あれは時系列としては正しいのかもしれない。

人は改称する。特にいわゆるペンネームでは。廣子も本名では世間の眼が気になって自由に創作発表が出来ない、という感覚があったのであろう、ペンネームを考えていたときに、たまたま乗り合わせた電車の中の少女の傘に書いてあったその名を、松村みね子、という名前をわがペンネームとして使いだした、というのはその随想に書かれている。

筆名というのは、もしかすると「自由に夢想の世界に行くための気持ちの上での切符」のようなものかもしれない。ささやかな私の版画活動でも筆名を使うとすこしく自由に創作できる気がするのである。

廣子は歳若くして佐佐木門下に入り、生涯その門下生であったと思う。師よりも早く亡くなった際は、師からの言葉も貰っている。

勿論自身では読むことが出来ないわけだが、亡くなった長男に向けて最後の随筆集「燈火節」を上梓した廣子はやはり、なんらかの形で師の弔辞に接しているようにも思うのである。

(短歌は片山廣子名、翻訳は松村みね子名でした。翻訳の方がより個人的だったのかも知れませんね)



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