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励ます、ではなく祝いたいのだと気づいた話

「祝うこと = 可能性の拡大」 

ある時、「世界は贈与でできている」の著者である近内悠太さんのVoicyを聞いていて、この言葉に出会いました。

近内さんは例として入学式や卒業式など門出のシーンを挙げ、他者の可能性の拡がりを私達は祝うのだ、というような話をされていました。

どうしよう、秀逸すぎて言葉が出ない。。まったくもって Speechless です。

そうか。誰かを祝うとき、私はその方の「末広がりの未来」にワクワクを覚え、「おめでとう」が口をついて出るんだな。そう腑に落ちた瞬間でした。

「励ますこと」に潜む罠

近内さんの秀逸な表現は、私の中の長年のわだかまりを解いてくれました。そうか、私は励まし屋だったのか。「励まし屋」とは、これまで私が自分に対して持っていたセルフイメージの1つで、一言でいうと「他人を元気にしたがり」な人のことです。

私はもともと、どちらかと言えば明るい性格です。そのせいかなのか定かではないけど、10代や20代の頃は「あなたと話すと気持ちが明るくなる」「悩んでいたことがどうでもよくなった」などと言われることがありました。

耳障りのいいその言葉たちは中毒性が高く、それが聞きたいがために相談役を買って出ることも多々あったと記憶しています。

でもそれは結局、その人たちの痛みを一時的に「麻痺」させ、決断を「先送り」させているに過ぎなかったのです。言ってみれば抗生物質のように、一時的に被害は治まるけど根本的な解決ではない。そして何より、問題を解決するのは私の役目ではありませんでした。

にもかかわらず、彼らの状況が好転しないと苛立ちを覚え、これだけ自分が励ましているのに、と押し付けがましい感情を顕にしていました。そうです、果てしなく面倒臭い人だったのです。今よりずっと。

ああ、何たる自作自演。まさに自演乙。あの時の私に「十数年にわたるロングラン公演お疲れ様でした。」と言ってやりたいほどです。当時のことでとにかく鮮明に覚えているのは、「どうか笑っていて欲しい」と誰に対しても強く願っていたこと。その願いは呪いとなり執着となって、私を蝕んでいきました。

呪いとは、可能性の制限

冒頭でお話した近内さんですが、「祝い」だけでなく「呪い」にも言及されていました。

近内さん曰く呪いとは、
【他者の可能性を制限すること = コントロール】と定義されるそうです。私の例で言えば、相談に乗るよと甘い言葉で誘っては、幸せそうにしろ、と強制する。これはコントロールそのものです。更に言うなら、私が気に病んでいた理由は、私に相談してきた人たちが「幸せそうに見えない」からじゃない。単に彼らを思うようにコントロールできず、葛藤していただけです。

「人を呪わば穴二つ」。他者を呪い、自らも完全に呪われていました。ああ、恐ろしや。

自分のコントロール欲から見えた原体験


このコントロール欲を深掘していくうちに、はっと思い出すことがありました。

子どもの頃、私はよく母をどうにかして笑わせようとしていました。それは私の元々の性格もあるのですが、それだけではなかった。我が家には飲むと暴れる父がおり、錯乱状態のときには近くに住む祖父母の家に避難する、というのが常でした。家の中がこんな調子だったので、母は母なりに気丈に頑張っていましたが、よく涙をこぼしていました。無力な子どもの私は、母に笑って欲しくておどけるのが精一杯でした。たとえ目の前の現実は何も変えられなくても、この一瞬だけはその辛さから解放されてほしい。それだけを切に願っていました。さらに母が笑ってくれたときだけは、自分の価値を認められた気がしてとても嬉しかったことを覚えています。

ここまで思い出して、さらに気づきがありました。私は悩んでいる人たちを「泣いている母」と重ね合わせていたのだと。母の幻影を求めて自意識を満たし、優位性を求めていたのでしょう。それが自分の唯一の価値だと信じて。

これが、ロングラン公演の終焉でありました。本当にお疲れ様、あのときの私。泣いている母はもういない。もう「母を救えなかった自分」を悔いることもないのです。それに考えてみれば当然なのですが、人は自分で元気になるのであって、私が誰かを元気にすることはできません。

今は「他人に誇れる自分の価値」より、自分は本当は何がしたいのか、それを通してどう他者に貢献できるかを考える日々です。目下、「祝いたい」という気持ちからどう自己実現するのかが課題です。

「祝い屋」まめたろう、ここに誕生!

ということで(どういうこと)、私まめたろう、屋号を励まし屋から祝い屋へ改めます。いや、もうシンプルに「祝うことが好き」だけでいい気がします。好きを得意に! 

わっしょい!あなたを祝います。

だって貴重な時間を割いてまで、こんな拙い文章を読んでくださるのだから、そんな方の未来が輝かしくないわけ無かろう。あなたがあなたであること、本当におめでとうございます。その優しいお気持ち、ありがたくいただきます。

祝いから生まれる副次的な効果

「私は祝う!」と決めたら、周囲の人々や通りすがりの人まで祝いたくなるから不思議です。そして、自分のことさえも少し祝えるようになってきました。「自分が好きです!」と言うのには抵抗があるのに、「やったね自分、おめでとう!」とは簡単に言えてしまう。「おめでとう」の5文字には、すごいパワーが備わっている気がします。(私調べ)

英語の語源と「祝うこと」への考察、祝い屋の誕生


私は英語の語源を調べるのが好きなんですが、先日「祝う」という意味の英語の語源を調べてみたら(Congratulate)、


"wish joy," from com "together, with" (see com-) + gratulari "give thanks, show joy," from gratus
"agreeable"

(「喜びを望むこと」「共に」「感謝し、喜ぶこと」)

参照: Etymology Online
https://www.etymonline.com/word/congratulation

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
待ってました!コングラッチェ!
日本語に続き、自分の背中を押してもらった気分でした。

*面倒臭さのジャンルが「暑苦しさ」に変わったことを最後にご連絡しまして、祝い屋まめたろう、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

【要するにこういうおめでたい人がいる、という長文のご連絡でした。お読みくださった素晴らしいあなたが、素敵な一日を過ごせますように。】

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