JR駅無人化反対訴訟の第4回口頭弁論傍聴してきたよ(後編)

14時ちょうどに口頭弁論が始まる。まず準備書類に関する確認のやり取りがあり、徳田弁護士の意見陳述、今後の日程の確認。なんと10分と少しで閉廷。今回は弁護士による意見陳述のみで、法廷では原告の言葉は聞けず、また被告も発言することはなかった。海外映画の裁判劇のようなものを想像していた私はちょっと拍子抜けだったが、その後弁護士会館に移動して今日の総括と意見交換とが行われ、そちらにも参加した。

徳田先生による意見陳述の内容についての解説があり(内容については前編を御覧ください)、原告の障害当事者である、宮西君代さんと吉田春美さんとがそれぞれ意見を述べた。

ふたりは車いすを利用するだけでなく言語障害もある。
宮西さんは脳性麻痺によって力を振り絞るようにゆっくりとしか話すことが出来ず、聞き取りが難しい。彼女の言葉を聞くために、会場に集った人たちは息をひそめて声に意識を集中させる。

吉田さんは気管切開をしているために発声ができない。寝たきりの状態で口に加えた棒で文字盤の文字を一文字ずつ示し、介助者が一文字ずつ読み上げていく。この聞き取りにも別の集中力がいる。

そう、駅無人化に伴ってJR九州が巨額を投じて作ったシステム・SSS(スマートサポートステーション)では、電車の乗り降りに介助が必要な場合、前日の夜8時までに電話予約が要るのだが、彼らはそもそも自分で電話ができないのだ。恥ずかしながらその時、その事実に私はようやく気がついた。

彼らの言葉に耳を傾けていると、私たちは不思議な連帯感に包まれていく感じがする。また、裁判の前の入廷行動のために垂れ幕を持って裁判所へ列をなして歩いたときも、同じように独特の連帯感があった。

「出来ない」ことの力強さと言おうか、私たちは歩けず、喋れず、見えない者の集まりだったが、集まった障害当事者たちからは、自分たちが「出来ない」ということに対し、恥も引け目も感じないのだ、という意志を感じる。

なぜなら、社会は「共生のための相互尊重」のためにあるからだ。

「駅無人化は長期的な交通ネットワーク維持のための効率化の一環として駅耐性の見直しを図るもの」とJR九州は主張するが、「長期的な交通ネットワーク維持のため」切り捨てられる人々がいるのであれば、そんなネットワークはそもそも必要がないと私は思う。

社会の維持のために排除される人がいていいはずがない。社会とは、社会に属するすべての人のためのものであり、ひとりでも欠けてしまえば社会ではないからだ。人が排除される社会は、いったい誰のためのものであるだろうか。乗れない人のいる鉄道は一体誰を乗せて走るのか。考えてみればごく単純なことだが、どうしたことか、私たちはそれをすぐに忘れてしまう。

私たちが赤ん坊であったとき、ひとりでは何も出来なかったはずだ。老いていくとき、今まで出来ていたことが出来なくなっていく。それはすべての人にとって当然のことで、「出来ない」ことはコントロールしようがなく、恥じることでも引け目を感じることでもない。

「楽しい裁判」。なるほど、この裁判は、どんな人も、誰もが尊重され、蔑ろにされたり、排除されたりすることがない社会を目指すためのものだ。
報告会では、時間に急き立てられることなく、むしろ時間が私たちのために流れていたのを感じた。その場にいる人達すべてが、臆することなく自分の意見を自由に述べることが出来、皆がそれらにしっかりと耳を傾けていた。この裁判を引き続き楽しみたい、そう思った。


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