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ネイルエナメル 第3回

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 私はナツに引かれてナツがよく行くという古本屋に連れて行かれた。

「本が好きなの?」

「うん。あんまり読まない?」

「うん」

「そう」

「ナツは、どんなのを読むの?」

「最近は、純文学系が多いかも」

 ジュンブンガク、という言葉を頭のなかで漢字変換ができず、私の背中はちょっと冷たくなった。そんなことも知らないバカな子だと思われたくない。

「好きな作家は?」

 ナツは何人かのフルネームをあげた。だけど私には誰ひとり分からない。

 少し、打ちひしがれた気持ちになってしまう。こんな私は、ナツに軽蔑されないだろうか?

「私にも読めるようなの、ある?」

「どんな本読んだことある?」

「ライ麦畑?」

「それ、感想文の指定図書じゃん」

「あの、飛行機が墜落して砂漠で王子様に会うやつ」

「うーん、いい話だけど、私はあんまり好きじゃないな」

 ナツはしばらく宙を見て、本のタイトルと作家名を言った。

「なんか聞いたことある」

「映画化してたでしょ」

 ピンときて、大きく頷いた。

「ライ麦畑の翻訳もした人よ」

「翻訳もして、小説も書くの?」

 ナツはくすくすと笑う。

「ごめんね、変なこと言った?」

「ううん、純って、かわいいね」

 ナツに頭をポンポンと撫でられて、何だかちょっぴりくすぐったかった。

 早速私は目の前の本棚を見た。本は作家名の順番で並んでいるらしいが、一人の作家にしたって、ものすごい量の本が並んでいる。

「うちにあるから、貸してあげる」

「えっいいの?」

 思っていた以上に大きい声が出て、静かな店内に響いた。何人かのお客さんがこちらを振り向いた。ナツはびっくりしていて、私もはっと口をふさいだ。顔が熱くなるのがわかる。ナツは押し殺したようにくっくっと笑った。

 店を出て、古本が詰まったレジ袋を大切そうに抱くナツと並んで歩く。ナツは歩くのが早くて、私はちょこちょこと小走りになり、息が弾んだ。自分でも驚くくらい話したいことがいっぱいあって、息が苦しくなりながら喋りまくった。少しでもナツが笑うと嬉しかった。

 見慣れた交差点で、じゃあ私こっちだから、とナツが軽く手を上げた。

「また明日ね」

 ナツはちゅるんとしたつやのあるポニーテールを揺らして歩いていった。

 さっそうと歩くブルージーンズの後ろ姿、これほどまでにジーンズが似合う人は見たことがない。ナツは次第に小さくなって、やがて曲がり角に消えた。


 次の日の朝の教室、ナツは私の机まで来てくれて、どこかのショップのおしゃれな紙袋を差し出した。

「おはよ。これ、昨日言ってたやつね」

 袋の中をのぞくと、分厚い文庫本が二冊収まっていた。

「ありがとう。頑張って読むよ」

「無理しなくていいのよ。面白くなかったら、そのまま返してくれていいし」

「ううん、私、本を読みたいって思えたの、初めてだから」

 そう? とナツは微笑んだ。周りのクラスメイトたちが注目しているのがわかった。私は袋にシワがつかないように、丁寧にカバンにしまった。

 ライ麦畑は、途中で読むのを諦め、勝手な想像で感想文を書いた。毎年感想文で賞をもらう子なんてほとんど決まっているようなもので、私のようなのがまじめに書いたところで何かがどうにかなることなんてないと思っていた。こんなにも進んで読みたいと思ったのは初めてのことだった。

 早速帰ってすぐに本を取り出しベッドに飛び込んだ。ナツの本からはほんのりと香りがした。

 本を開いて顔を寄せ、鼻から息を吸う。清潔で、どことなく甘い、花のような香り。ナツのにおいだ。体操着を着てけだるげに立つナツが思い出された。長いまつげ。汗ばんだうなじ。髪をアップにしていると、なんだか色っぽく見える。私は再びページに顔を埋めて息を吸う。急に恥ずかしくなった。何してるんだろう、私。

 本を閉じ、今度は最初から開いた。小さな活字がたくさん並んでいる。古い本なのか、紙は黄色っぽく、よく見ると字は少しインクが滲んだりかすれたりしている。私は文字を目で追い始める。

 どうしても読んでいるうちに眠くなってしまうが、せっかくナツが貸してくれたのだ、せめて読破くらいはしたい。なけなしの気合と根性で数ページ読みすでにうとうとしていると、携帯が鳴った。従姉の夕梨姉からだった。

「ぐり預かってよ」

「ええ、また?」

 夕梨姉は大学でベトナム語を専攻している。バイト先の飲食店で日本語学校に通っていたベトナム人の男の子と付き合い、その後帰国した彼に会いに休暇のごとにベトナムに飛ぶ。一人暮らしのアパートではぐりという茶トラのオス猫を飼っていて、ベトナムに行くときはうちに預けて行く。

 私は猫好きだし、うちのお母さんも大の猫好きなので喜んで預かるのだが、お母さんは猫アレルギーがひどく、毛が舞うだけでくしゃみや鼻水が止まらなくなってしまう。ぐりが我が家に来たときは、私の部屋にほぼ監禁状態になる。

 ぐりはまだ若いからか元来の性格か、かなりのやんちゃ者で、机やクローゼットの上に飛び乗り、上に置いているものを落とすわ壊すわ、止めに入れば引っ掻くわで手に負えない。だけどトイレはきちんとしつけてあるし、何よりも私が外から帰ってきて、ベッドや椅子に腰を下ろすと挨拶のように膝の上に飛び乗ってきて、なでなでをねだり、しばしのゴロゴロタイムを満喫していくのがものすごくかわいくて癒される。短い期間であれば預かるのも悪くはない。

 だけど私はわざと大儀そうなため息をつく。ここで恩着せがましくしといて、お土産のランクを上げさせるのだ。

「ぐりがいると邪魔してくるから勉強集中できないんだよねー。でも夕梨姉からの頼みを断る訳にはいかないしな―」

「はいはい。どうせ勉強なんてろくにしてないでしょ。お土産は何にいたしましょうか?」

 バレバレだった。

「えっとねー、ココナッツ石鹸とハスの実スナック」

「かしこまりました」

 ここですかさずご機嫌取りをしておく。

「どうなの? 彼氏さんとは?」

 夕梨姉の声は明らかにトーンが上がった。電話口だからという理由だけではないだろう。

「彼、今ベトナム料理の修業してるの。いずれ日本でベトナム料理屋を出すのが夢なのよ。うまくいったらお母さんも連れてきて、皆で一緒に暮らすつもり」

「それって結婚するってこと?」

 やだもう、と夕梨姉は恥ずかしそうに言う。

「それは、まだ未定」

「未定って?」

「帰国してから話すわ。一回、こっちに連れて来ようと思ってるの。こっちに住むなら色々と準備しないといけないことがあるからね。今回は彼の両親に会うことになってる。今度帰国するときは彼も一緒よ。紹介するね」

 出発するときにぐり連れて寄るから、と夕梨姉は電話を切った。つまり、プロポーズしてもらいに行くってこと? うらやましい。

 私はナツの本にスピン(本についている紐のことをこういうのだとナツに教えてもらった)を挟んでリビングへ降りる。キッチンではお母さんが夕飯の支度をしていた。私はさっきの電話のことをお母さんに話した。

「国際結婚かー。格好いいな」

 私はうっとりとため息をつく。

「大変って聞くわよー。文化の違いって思っている以上に根深くって価値観に大きな差があるみたいだし、言葉の壁とか、子供の教育とか親の介護とか……」

 お母さんはフライパンを揺すりながら言う。コンロのフライパンはじゅうじゅうとおいしそうな音を立てる。私はお茶碗やコップ、箸を三人分テーブルに並べた。

「うん、大変そう。すごいエネルギーよね」

 恋愛のためにそんなにエネルギーを注ぎ込むなんて、私には無理そうな気がする。

「幸せのためなら死ねるタイプじゃないとね」

「えーそれって矛盾してない? 生きてないと幸せ感じないのに?」

「そうねえ」

 お母さんはフライ返しを二つ使ってフライパンの中のものをひっくり返した。のぞき込むとお好み焼きだった。

「純の好きな海鮮よ。安かったの」

「やった」

「お父さんのグラス冷やしといてあげて」

 私は戸棚からビールグラスを取り出して冷凍庫へしまった。


第4回に続く

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