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『落下の解剖学』~解剖しているのは誰か~

  久々のフランス映画、しかも映画館で鑑賞。贅沢な時間だった。視点が変わるたびに見えてくる物語が違う。その都度その都度互いを利用しあうかのように変化する関係性。余白の使い方も含め、複層的な視点をもつ信頼できる人の作品に身をゆだねながら見れる幸福に浸った。

 以下、ネタバレも含めて鑑賞後の感想を書いてみる。

 夫婦は二人とも物書き。言語にたけている二人ではあるが、互いに母国語を封じ、英語でやりとりするという、一枚膜を張った関係にある。この映画の中の一番の見どころは、この二人の喧嘩を隠し撮りした音声が法廷でさらされるシーン。(以下、私の勝手な翻訳)。

 夫の言い分:僕ばかり家事や育児、リフォームまでやっているから、疲れすぎて作品を形にする時間なんてない。お前は僕の案を盗んで本書きやがって。僕らはフランスに住んでいるのに、フランス語を学ぼうとしないお前のせいで、使わなくていい英語で話さなければならない。息子にもそれを強いている。僕らはお前にしばられている。

 妻の言い分:ホームエデュケーション選んだのは、息子を事故に合わせた負い目のあるあなたでしょう。そんなこと私頼んでいない。私がしばっているって、ここはあなたのホームタウン。私こそ来たくもない田舎来させられてあなたにしばられている。リフォームもあんたがやりだしたんでしょうが。私の母国語はドイツ語だし、英語は二人の妥協点で使うことにしたんじゃない。それに作品の案だって、あなたが捨てたからもったいないから私が作品にしただけ。そんなに自分のだって主張したければ、「こっちが本家です」って本出せば?

 部外者の私はどちらにも感情移入できる。どちらも共感できる。でも、当事者の二人は「こっちが正義だ」として譲らないから、落としどころはない。話し合うことで憂さ晴らしをしているだけ。次のステップにはいけない。

 夫婦だけの関係性だったら、落としどころはみつかっただろう。そうできない原因に、なりたくてなったわけではない息子は、この夫婦の恥部を法廷でさらすきっかけを作る。そして、すべての状況を眺めたうえで、自分はどのストーリーの上で生きていくかを選ぶ。真実や正しさではない。自分がこの世を生き抜くための選択。

 許すとか、許さないとかいう二分法的な関係性ではない。ともに生きていく上で関係しあわねばならない家族。そうした観点から眺め直したら、はたして夫が死ぬ必要はあっただろうか、と部外者の私はふと思う。息子の愛犬だとばかり思っていたら、当たり前のように妻の横にいつものように寄り添う犬。夫の言うように、すべてを手なずけているかのようにみえる妻の目に、むなしさが浮かぶ様子をみながら、涙が出た。

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