あの日
おはようございます(^O^)/。
高知のまめさんでーす♪
今日も、日本を変える為に高知県仁淀川町の別荘で目が覚めましたー(^0^)/
『まめまめーる』は、心のサプリメント。。。(^_-)-☆
昨日は、仁淀川町の菩提寺「養花院」で『施餓鬼祭』でした!
お祭りの後の食事会は、めっちゃ楽しくってこじゃんと呑みましたーp(*^-^*)q
今日も、絶好調で楽しそうに笑顔で過ごしましょう。
今日はいい日だ( ^^)Y☆Y(^^ )。
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おばりんさんから、陸前高田市の当時高校3年生なおみさんが語る「あの日」をいただきました。
かなり長文ですが、読んでください。
フジテレビで「わ・す・れ・な・い」という震災の特別番組を見て、今まであまり詳しく書かなかった、11日の私自身のことをちょっと長々とつぶやいてみようと思います。
私はあの日午前授業でした。
放課後は国道45号線沿いにあるショッピングセンター(リプル)へ友達(以降S)と行きその後ファミリーマート、ドラックストア(ツルハ)という順に回る予定でした。
友達が校則違反をしたペナルティーである校内清掃をしなければならないとのことで、友達が終わるまで2時間ほど職員室で時間つぶしがてら数学を教わったり、進路の話をしたり、なぜかチェルノブイリ原発事故についての話をしたりしていました。
そういえばあの日の朝、友達たちに私は「サバイバル的なことがしたい!!こう…地震きて家崩れてうちも閉じ込められるんだけど脱出して、瓦礫の上を華麗に越えていって、助けてーとか言われて救出したり…笑」と話をしていて、その話もだんだん現実味を帯びていき「近々津波来ると思うー」ということでまとまりました。
つい先日大きな地震があったため、寝ているとき地震がおきたら何を持ってどこを通ってどんな風に避難するかということまで考えていました。
話し戻って、Sの居残りも終わり、職員室で合流し先生と進路診断等して盛り上がり、そろそろ行こうかーということで校舎を出ました。
校舎前にあるグラウンドの横の道路をいつも通り通って自転車置き場の横の細い道を進んでいこうとしたとき、私のケータイの緊急地震速報のアラームが鳴りました。
驚きながらも、とりあえず地震来るから止まろうということで、身構えました。
するといきなり大きな揺れが私たちの町を襲いました。
揺れはいつものようにすぐにはおさまらず、さらに幅の広い揺れになりました。
近くの民家の瓦がパリンと音を立てながら私たちの2m先ほどにとめどなく落ちてきました。
私たちはお互いに抱き付き合い、とりあえず何も倒れてこない場所に動かなきゃ、と校舎前のグラウンドの方へ向かいました。
しかし、私は家にいる4匹のチワワ(ビーンズ,ロコ,かりん,クリーム)と1匹の猫(黒)の元へ向かわなければ、と一人焦っていました。
「家帰らなきゃ家帰らなきゃ…」と友達がとめるのも聞かずつぶやき続けていました。
頭の中はそのことでいっぱいなのに、脚はがたがたと震え、唇も歯も震えていました。
「行かなきゃ、行かなきゃ!」と思うのに脚は動いてくれません。
家までは、走れば7分ほどでつく距離です。
学校の中や体育館で部活をしていた生徒や、残っていた先生方がグラウンドへ集まってきました。
Sにしがみつきながら、私たちもみんなのところへ行きました。
そのときケータイのワンセグで宮古に津波が押し寄せ、たくさんの車が流されるのを見ました。
何が起こっているのか全く把握できませんでした。
私がいる高田には津波が来ていないのに、宮古では目を覆いたくなる惨劇が起きてる。いったい何なんだという気持ちでいっぱいでした。
何かしなきゃいけない!
そんな気持ちも限りなく渦巻いていました。
こういうときこそ笑わなきゃいけないと思って、深呼吸をし、自分たちの身の安全を確保しよう、信じたくないけど確実に高田にも津波が来る、と薄く頼りない「覚悟」をしました。
校舎裏の急な坂を上り、高い位置にある高校の第二グラウンドへ行き、フェンス越しに海のほうを見ました。
しかし津波らしきものは見えません。
ちょっとした白波が見え、あれが津波か?と思ってみていました。
するとどこからか誰かが叫ぶ声が聞こえました。
私は海ではなく、手前の45号線辺りを見ました。
一瞬何が見えているのかわからなくなりました。
高田松原にある球場が「流れて」いました。
正確には球場が流されていたわけではなく球場のところに海が渦々しく流れ込んできていたのです。
私の父は消防団です。
いつものように水門が閉まっているか消防車に乗って確認しに行ってるはずです。
球場は水門より手前にあります。
それならお父さんは… 津波は防波堤を越えている…お父さんは水門の確認に…
私の頭の中には「父の死」が浮かんでいました。
さっきまでは球場のところだった海は、私が行く予定だったショッピングセンターをのみこみ始めました。
渦が見えます。
ついに駐車場にあった車も飲み込まれ、渦に乗って流され、ショッピングセンターも西側になだれ込むように流され始めました。
周りの高校生たちの声も大きくなっています。
「とまって。お願いとまって。止まれとまれとまれ…」私は組んだ手を額に当て必死に止まれと願いました。
そして、どうかお父さんが波にのまれていませんように、お父さんに苦しみが訪れていませんようにと願いました。
しかし、目を開けると海は何の境もなくすべてをのみこんでいっています。
「第二波が来たぞー!!!上に上がれー」
大人、おそらく先生が叫ぶ声がしました。
私はフェンスに張り付いたまま動こうとしませんでした。
Sが「上がるよ!!」と言い、私の腕を掴み走りました。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐいながら、ローファーで70°はあろうかと言う坂を必死によじ登りました。
上から見た高田は、私が今まで暮らしてきた、見ていた大好きだった高田ではありませんでした。
波があちらこちらで渦を巻き、見渡す限り海が「来て」いました。
仕事に行ったお母さんは、どこを通って来ているのだろうか。
普通に町中を通ってきていたら…
お母さんだったら諦めるかもしれない… 死んでほしくなんかない。
私だけなんて嫌だ…
不安は不安を呼び、胸のなかはキリがない不安・悲しみ・悔しさ・怒り・そんな感情がひしめき合っていました。
するとSは私に「もう見なくていいから!見ちゃダメだよ。見なくていい。」と背中をさすりながら力強く言いました。
Sの家は気仙町にあり、海の本当にすぐ近くです。
弟や妹が4人いて、Sは長女です。
自分の家が流されているのは確実。
弟たちの安否は全くわからない。
ましてどこにいるのかすらわからない。
お母さんやお父さんとも連絡がつかない、そんな状況なのに、Sは私を守ろうとしてくれたのです。
「大丈夫!(^^)」私はそう言い、無理矢理笑顔を作りました。どんなにひどい笑顔だったことでしょう。
しかし、それを皮切りに今度は薄くない、しっかりとした、どんな結果であろうと生きるという覚悟を決めました。
私は「みんな大丈夫みんな大丈夫…」と自分に暗示をかけるように、うつむきひたすらに「みんな大丈夫」と呟き続けました。
呟いているうちに、覚悟はしっかりとしたものになりました。
暗示がかかったのだと思います。
「みんな大丈夫!みんな大丈夫だから!」
私は最後に大きな声でそう言い、私たちの町をのみこんだ海をしっかりと見据えました。
Sは驚いた顔をしていました。
それもそのはず、顔面蒼白で涙だらけの顔をした ついさっきまで震えていた私が、いきなりハリのある声をだしたのですから。
「もう大丈夫なの?」
不思議そうな、焦ったようなそんな顔をして、Sは私に尋ねました。
私はそれに笑顔で大丈夫と返し、笑いました。
絶対みんな大丈夫だからと言いながら。
その後、第二グラウンドに避難してきた近隣の方々が道端に座り始めました。
野球部は屋内練習場を解放し、大きな声で避難者たちをそこへ誘導していました。
ですがお年寄りの方や、津波で頭が混乱している方々には中々その声は届きません。
私も何かしなければと思い、Sはみんなと一緒に居るように言いおき、避難者一人一人にできるだけ笑顔でゆっくりと、はっきり練習場へ入るように伝えていきました。
それと同時に、母が火葬場に避難してきているのではないかと見に行きました。
しかし、何度見回しても母の車はありませんでした。
地面の地割れにつまずきながら、何回も何回も火葬場に行きました。
友達が言うには、顔面蒼白と言う言葉の意味を理解できるほど、私の顔は血の気が引いていたそうです 。
言い忘れましたが、上のグラウンドについてすぐ、ケータイの災害用掲示板で、同じdocomoを使っている祖母と父に「高校の上のグラウンドにいる」と送りました。
父からは「了解」と返って来ていましたが、その後はケータイに電話をかけても繋がりませんでした。
水没したらケータイは使えなくなります。
また不安が生まれました。
それに追い討ちをかけるように、母からの不在着信に気づきました。
この電話はもしかしたら波にのみ込まれ始めた母が車の中からかけてきた最後の電話だったのではないか、そんな考えが浮かび、また心が崩れてきました。
何度見回しても母の姿はみえません。
第二グラウンドから見て、東側の小高い場所で消防車の赤灯が光っているのが見えました。
あれにお父さんが乗っているかもしれない!
小さな希望が心に生まれました。
さっきと同じように自己暗示をかけ、誰からともなく始めた薪拾いをSと一緒に手伝いました。
すると、家がすぐ近くでわたしが小さい頃から知っている消防団の方(Kさん)が来ました。
わたしは体裁など気にせず近より「お父さんは?うちの父をしりませんか!?」と 半分叫ぶように聞きました。
Kさんから返ってきた返事は「わからない。父さんとは途中ではぐれてしまった。」私の目からは性懲りもなくまた涙が溢れだしました。
Kさんはそんな私に「きっと大丈夫だ」と力強く、背中を叩いて言ってくれました。
そのあとは、マイナスな事は考えないようにして、強がりでもなんでもいいから笑いながら木を集めました。
まだ3月、まだ高田は夜に凍える寒さになります。暗くなる前に… と思い、木を引っこ抜き、丸太を運び、友達が私に抱いていたイメージを打ち壊しながら木を集めました。
"火事場の馬鹿力"もあったのでしょう。
でもそれ以上に、不安を隠し続けているSを笑わせたくて、私のせいで心配を増やしたくなくて体裁も気にせず全力を尽くしました。
信じてくれないかもしれませんが、取ろうとした木はまだ根付いていた木で、運んだ丸太は私の身長の2倍くらいはあったんですよ!(笑)
元々力はありましたし!
うち農機具屋なので、小さい頃から重いもの運ばされてて…
脱線しましたが、とにかく笑顔でいなきゃと心をあんなに強く持ったのは生まれて初めてだったと思います。
薪拾いもあらかた終わり、みんなはそのあと水の引かない町をみたり、親が迎えに来て自分の家や親戚の家に帰っていきました。
親が迎えに来る光景は、私の目にはどうしても羨ましく映り 、心に曇りを生んでいきました。
私とSは私の家がある東の方向を眺めていました。
この頃には不思議な心の余裕が生まれ、流されたであろうペットたちに心の中で何度も謝り、生きているかもしれないという希望も捨てきれずにいました。
そのとき、私の耳にしっかりと「なおー!!!」と叫ぶ父と母の声が飛び込んできました。
声がしたのは屋内練習場の方からです。
私は咄嗟に振り向きました。
姿はみえません。
でも私の耳には私を呼ぶ聞き慣れた父と母の声がしっかりと聞こえています。
目が飛び出すのではないかというほど泣き腫らした目で、父たちの姿を探しました。
「なおー!!福田なおみはどこだー!!なおー!!」
手には杖がわりの木を持った母と、いつもは大きい声を出さない父が、消防のはんてんを着て必死で叫ぶ姿が目に飛び込んできました。
私は声がでない程の喜びを身に染みて感じ、同時に震災後初の安心を感じました。
私は父と母の間に飛び込んできました。
2人もそれを受け止め、しっかりと抱き締めてくれました。
その後、父と母がここまでどうやって来たのかを聞かされました。
父は水門が閉まっているのを確認してすぐ、波が防波堤を越えるのを見て、消防車で山側へ車を走らせました。
しかしT字路のところで車が渋滞しているのを見て、そこで交通整理をしていたそうです。
そのとき、私の幼馴染みが走って海側へ行こうとするのを見て引き留めたそうです。
すると幼馴染みはお婆さんを担いで避難したが親が心配だから店を見に行きたいといったそうです。
父はやむを得ず、足じゃ絶対に逃げ切れないから、最悪のことも考えて車で行けと言ったそうです。
父はそのあとすぐ小高い場所、つまり私が消防車を見つけた場所へ避難し、ギリギリで難を逃れました。
幼馴染みは地震発生から1週間ちょっとした頃、高田の市街地の方で発見されました。
母は車で、会社から同じ職場の人を乗せて山側を通って高田へ向かったそうです。
町の方へ降りようとすると、消防団に止められ一旦引き返し、旧国道45号線を通っていたそうです。
すると海の方に白い煙のようなものが見え、目を凝らしやっと巨大津波であることを悟りました。
その後、父と同じところへ避難していた祖母と合流し、午前授業ですでに家にいるはずの私がいないことに気づきました。
祖母に聞くと 高校の山にいるらしい、と聞かされたそうです。
母はそれを聞き安心し、私のいる第二グラウンドに向かおうとしました。
しかし第二グラウンドまで車で行く術がないため、歩いて山を越えなければいけませんでした。
道に迷いながら林を掻き分けて歩いていると、後ろから父の声が、どこかもわからないような山のなかで 父と合流したそうです。
その後、父から軍手を片方貸してもらい、2人で山のなかを歩いて私の元へたどり着いたとのことでした。
その夜は、土の上に敷いたブルーシートの上でシーツ1枚を私、S、母の3人で使い、体を寄せあいながら寒さをしのいでいました。
するとどこからか私を呼ぶ声が聞こえ、そちらを向くと 私の従兄弟のお母さんが布団に入るようにと促してくれました。
私たちは4人で1人用の布団に入り、無理矢理体を折り曲げ寝返りは一切うてない状態でしたが、体温で暖まった布団で一夜を過ごしました。
しかし、外で焚き火にあたりながら寒さをしのいで一夜を過ごした人、石油ストーブを8人くらいで囲みシーツを肩にかけ一夜をすごした人、8人で掛け布団1枚を使い一夜をすごした人など、私たち以上に過酷な夜を過ごした人たちがいたのも事実です。
ましてあの日は外で暖もなく一夜を越した人もいました。
翌日の朝、どこから来たのかはわかりませんが、乾ぱんとミニエクレアが届きました。
配分はどちらかを1つです。
私は乾パンを1つ食べました。
氷砂糖のみの人もいました。
朝になると、町の様子がはっきり見え、津波の壮絶さが目の当たりになりました。
その日の9時頃、おむすびが1人ずつ配られました。
塩も何も味のついていないおむすびでしたが、あんなに美味しいと感じたのは初めてで、おむすびを食べて涙が出そうになったのも初めてでした。
私たちは2~3日は何も食べれないことを予想していたので、とても驚いたのを覚えています。
その日、おむすびはもう一度配られましたが、私は食料がなくなったときを気にしてそれを食べずにしまっておきました 。
父は、その日から消防で生存者と遺体の捜索に行っていました。
一日中いない父が不安でしょうがありませんでした。
津波の情報が入るたび 父の身に何かあったらと思い、ただ祈るばかりでした。
避難者は一般の方はいつの間にか減り、その日の晩は同級生の男の子が拾ってきたスーパー等で売っているタッパー入りの鰯を、割り箸に刺して焚き火で焼いて高校生数人で食べました。
コメリから劇物が流れだし側溝やマンホールの中から流れ出した汚水と一緒に流れた鰯でしたが、あのときはそんなことは一切考えていませんでした。
考えたとしても笑い飛ばしたでしょう。
私は余った鰯を夜遅く帰ってくるだろう父のために1尾焼いて大事に持っていました。
その日の夕飯だったカレーライスは、ルーを人数分にするためギリギリまで水でかさましし、ご飯も節約のためお粥風でした。
ちょうどそのとき、父も母もおらず、2人の分をもらえるかどうかわからなかったので、私の分の一皿をビニール袋に皿ごと入れ2人が帰ってきてから私は食べたことにし、2人に鰯と一緒に渡しました。
それまで何も口にしていなかった父が食べてくれたことが、嬉しくてたまらなかったのを覚えています。
初めの一週間は あの津波を経験した人たちにとってとても壮絶なものだったと思います。
流された町を歩けば場所を問わず遺体があり、目にしない方が珍しい状態でした。
私の 11日あたりの体験談はここまでにしようと思います。
消防団のみなさん、自衛隊のみなさん、警察のみなさん、寄付を寄せてくださったみなさん、被災地を心配してくれたみなさん、募金箱に大切なお金をいれてくれたみなさん。
お元気にしていますか?
私はあなたたちのおかげで今の命があります。
毎日に笑顔があります。助けてくれて本当にありがとうございます。
今度は一緒に生きてくれませんか?
一緒に歩んでください。
あとたくさん笑ってください。
私が頂いたみなさんの気持ちは、私にとても大切なものをくれました。
絶望という言葉が相応しいような町に、心に、希望をくれました。
人の優しさを知り、当たり前のすごさを知り、人の繋がりを知ることができたのは、みなさんがいたからです。
私の立場からいうのは変かもしれませんが、生まれてきてくれてありがとうございます。
愛をくれてありがとうございます。
体調は大丈夫ですか?
友達や家族と喧嘩していませんか?
悲しんでいませんか?
苦しんでいませんか?
今度は私がみなさんに感謝を届けます。
何があっても私はあなたの味方をやめません。
みなさんの存在が私を支えてくれたように、私が支えられる存在になりたいんです。
辛いときでも笑顔でいてください。
泣いてないてその倍笑ってください。
そしたら私も一緒に笑います。
みなさんが大好きです。
ありがとう。
長々とごめんなさい!!
明日もみなさんが素敵な一日を送れることを願っています。
おばりんから、
この話を読んで、いまの平和な生活に慣れてしまっている自分に気付きました。
やりたいことがやれる人って世界にどれだけいるんだろう・・・
やっぱり普段の生活に感謝する気持ちは常に自分に言い聞かせていこう。
そして、人を助けたり、人を喜ばせたり、人の役に立つような生き方をしていきたいです。
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それでは、今日の言葉です。
車が故障したら、自転車で向かう
自転車が故障したら、歩いて向かう
足がつったら、片足で向かう
転んだら、起きればいい
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