この世界の(さらにいくつもの)片隅に を観て
本作は、この世界の片隅に(2016年公開)に、原作にあって映画版で削ったシーンを追加して、新しい映画として放映している。
「なんだ、完全な新作ではないのか」とそんなに期待せずに観たのだが、いやこれはすごい。
前作での何気ないシーンが、こんなにも意味を含んだものだったのか、という場面がひとつやふたつじゃない。
特に今回追加されたシーンにて色濃く描かれているのが、主人公のすずと、すずと見合い結婚をした周作と、遊郭の娘リンの関係性だ。
すずの素直な感情表現が、微笑ましくもあり切なくもある。
戦争の前から人々の生活は連続しているものであるということ
戦争下とはいえ普通の人々の暮らしを描いているので、起承転結的なストーリではない。日々に密着したドキュメンタリーをアニメにした、という感じ。そのなかに、主人公のすずに見えている想像の世界が時折折り混ぜられていている。
例えば、爆弾がバラバラと落とされ空に無数の煙が立つ様子を見て、思わず青空のパレットに色とりどりの絵の具を落としたくなるすず。
爆弾が落ちてきているにも関わらず、庭先でぼんやりとその様子を眺めて空想している。そんなすずを帰宅した義父が見つけ「隠れろ!」と声をかけて、匿う。
人々は戦争下に生きていたのではない。戦争が人々の生活にむりやり入り込んで来たのだ。
戦争のさなかにだって、今日の晩御飯のこと、お裁縫をすること、絵を描くこと、掃除をすること、考えるべきことがたくさんある。やりたいことがたくさんある。
空襲警報が鳴っても「またかね~。こないだも何にも無かったのに」としぶしぶ防空壕に移動する場面も、そんなことを象徴しているのではないかと思う。
戦争をしてはいけない、と言うのは簡単だけれど
自分の力ではどうにもならない不幸や葛藤が、いくつもいくつも現れて、そのたびに「命があって良かったね」と言われることに疑問を持つすず。
本当に、これは"良かった"のだろうか。こんなにたくさんのものを失って、良かったと言えるのだろうか。
日本が降伏したことを知らせる玉音放送を聞いて悔しがるすず。
「最後の一人まで、戦うんじゃなかったのか。その覚悟で、多くの犠牲を払ったのではないのか。私たちが今まで犠牲にしてきたものって、何だったのだ」
玉音放送を聞いたすず達には、戦争が終わった喜びではなく、多くの犠牲を払った悲しみがどっと押し寄せていた。
戦争をしてはいけない。
そんなフレーズは学生の頃から何度も何度も聞かされてきたが、それがどういうことなのかを突きつけられた作品だった。
今でも、戦争で人生をめちゃくちゃにされる人がたくさんいる。世界がボーダレスになっているからこそ、日本だって他人事ではない。
私にできることは、なんだろう。
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