自転車と小学生

私はランニングを趣味にしようとしています。
「ランニングが趣味だ」って言えない。
好きかと言われると好きではないと答えます。
嫌いではないけど、好きよりかはそっちのほうが近いかもしれない。

ではなぜ走っているのかというと、前々から走ろうと思ってたというのと、キッカケがあったから。

前々から走ろうと思ってたというのは、ダイエットしなきゃとかではなく、足が〝不健康に細くなってきた〟から。
不健康に細いとは、まるでマッチ棒みたいな足のことを思ってます。
あれは私的には綺麗でも可愛くもない。
少し痛々しい感じがします。
体質ならしょうがないですが、ダイエットとかなら、やめた方がいいと思う。拒食症とかでないならです。

私は結構スレンダーな方です。
出なければならないところもあまり出てない。
ご愛嬌です。
小説の影響ではないですが、細くしなやかで強かな身体に憧れます。
昔から黒人の運動選手の肉体美が羨ましかった。
あれは、努力でどうにかなるものではないとわかってはいますが、憧れずにはいられません。
むしろ、なれないとわかっているからこその、正しい〝憧れ〟なのでしょう。
だから、運動とか、昔からそういうメンテナンスはしていました。

冒頭で運動するのは嫌いよりだと答えたけれど、実際よくわかりません。じっとできない性分だから、よく動いているのです。
じっとしていて、かく汗はベタベタして気持ち悪い。
けれど、運動して思いっきりかく汗は不思議とベタつかない。
デトックスみたいな感じ。
ご飯も美味しいし、寝つきもいい。
多分こっちが本命かな。

走る習慣は私の中に時々〝起こる〟。
まるで意志に反する出来事のよう。
ずっと続かないのがミソ。
大体短くて3ヶ月坊主。長くて1年から3年坊主というところか。
脈絡もなく止めてしまう。
それは私のよくないところだも思っています。
周りの人がいいと思ってても、自分の中で何かが突然消えて、投げやりになってしまう感じだと思う。

だから私は何も残せない。

まあ、そんなわけで、走っています。
ちゃんと走ってるわけじゃなくて、ランニングウェアに着替えてのジョグです。
別に目標があるわけではないので。

ただ、それではつまらないので途中で神社とかにお参りしてます。
御百度参り的な感じではないのですが、もう何回も。
ちょうど散歩コースにいい距離にあるので、それがランニングコースに変わりました。
散歩コースだけでは、短すぎるので少し遠回りして、大体30分から45分のコースです。たぶん、2キロくらいのコースです。
だから、かなり遅い。
無理したら続かなくなるし、身体も壊しそうだから、今は慣らしです。
目標はないといっても、やっぱりマラソンとか走ってみたいとちょっぴりは思うし、トレイルランが少し気になったりしているのです。
だから、少しずつ、慣らしていこうと思っています。

ちなみにこの間は、仕事が夕方に終わって、そのままランニングしたら、暑さで喉がカラカラなりすぎてフラフラになってしまいました。
絶対にしてはいけないことなのでしょうが、私はタオルとお賽銭以外何も持たずにランニングに行くのです。
スマホも財布も。
距離も時間も短いから侮っています。
危ないのでやめた方がいいですよ。

そんなわけでジョギングしてました。
神社があったり、お地蔵さんがいたりしたら、その都度、お参りします。

こないだこんなことがありました。
私も最初の頃は人目につかないようにひっそりとお参りしていたのですが、別に悪いことしてるわけでもないし、コソコソしなくていいやと思って、少し前から手を打ち合わせた音を響かせるようになっていました。
それを近くにいた女子中学生と思われる数人に目撃されました。
私も彼女らを見かけた時から、気にはなっていましたが、いつも通りにしたのでした。
結果は気になっていた通りといいますか
「何かお願いしたいことでもあったんだよ〜〜」
とこれ見よがしとでもいうようなキャッキャと笑う声が聞こえてきました。令和ですしね。
背中にそんな声を感じながら私はその時は散歩でしたが、を続けました。
こんなこと書いてるので、根に、持ってるんでしょうね。

では、そんな私は何を祈っているのかというと、、、
何も祈っていません。
じゃ、なんでお参りしてるのってハナシ。
ただ、感謝してます。
宗教臭いですか?
臭いますか?
最近ではスメハラとかいうらしいですね。
別にそんなそんなつもりはないですが、お気を悪くされた方がいらっしゃるなら、読むのをやめたらいいと思います。こんなのただの雑談ですから。
私はいいなぁと思うことは、すぐに真似します。
影響されやすいのです。
この時、私が影響されていたのは、
斎藤一人さんという人です。
なんでも日本の〝納税王〟なのだそうです。
実業家なのですが、スピリチュアルなことがすごく人気があるみたいです。
この人がすごいと言っていた人がいたので、YouTubeで一通り講演とか聞いて、いいと思ったことだけ真似してます。
その中の一つに、斎藤一人さんのお参りの時のお願いは何みたいな質疑応答があって、斎藤一人さんは『何もお祈りしない』とおっしゃっていました。ただ、感謝していると。
私は、ラットのファンよろしく斎藤一人さんの信者というわけではないですが、いいなって普通に思ったので、それから真似してます。

ちなみに、お参りの作法に参考にしているものが他に2つあります。
1つは、小説で確か「はるなつふゆと七福神」という題だったと思います。参考にしてる割にうろ覚えなのは、わたしが小説自体は面白いと思わなかったからです、悪しからず。その中に
『お参りするときには、住所と、名前をお伝えする』
みたいなことが書かれていて、それを参考にしています。
もうひとつは、瀬戸内寂聴さんの著書に書いてあったことで
『年齢と性別』も伝えるというもよで、それも参考にしています。
というわけで、お参りの時に私は
「住所、氏名、年齢、性別」
をお伝えしています。
この作法が、上記3つのだれのどれにどんな感じで、あったかは、もしかしたらバラバラかもしれないですけれど、私はそれらをミックスして、お気に入りの作法にしています。

そんな私のお参りランニングならぬジョギングです。
今日もトロトロとですが着実に目的地のしっかり神社(その手前には分社?表現が合ってるかわかりませんが、的なものとお地蔵さんが2つあります)に近づいてています。

そんな道中に。少し進んでは自転車をいじる小学生くらいの男の子がいました。
チェーン外れたんだな、と思いました。
正直に言えば、何食わぬ顔で通り過ぎようと思ってもいました。
手が汚れるのが嫌でしたから。
それに、ある程度大人を生きていれば、いろいろ面倒ごともあるわけで、善意であっても悪意と捉えられたりすることはよくあることですから。
だから、声かけるつもりは最初はなかったのです。
けれど、「チェーン外れたの?」と声をかけたのでした。
許可をとって、触ってみました。すぐに直るだろうと思っていたのですが、あにはからんや外れてから結構触ったと見えて、チェーンがペダルの根元の部分に思いっきり入っていて、大人の私が引っ張ってみてもビクともしません。
チェーンがちょうどネジがある部分を超えてしまって、部品を外さなければどうにもならない状況でした。
ここでもまた、悩みました。声をかけたことを少し後悔もしました。すぐに直ると思ったから声をかけたのに、工具がいるレベル。
しかし、声をかけた手前
「これは無理」
と諦めてジョギングに戻るのも後味が悪い。
神社がもうすぐそこでしたから、ねじ回しくらいあるだろうと、少年に時間の余裕はあるか尋ねて、神社にドライバーを借りました。

結論から申し上げると、直りませんでした。
それもただ直らなかったわけでなく、神社でドライバーを借りて、近くの保育園で六角レンチ(ラチェットっていう工具でしたかね)を借りて、時間もなんやかんや1時間近く使って、気がついたら少年のタイムリミットもオーバーして、最初の状態が直ったのに何の神の悪戯か、前チャーンが直って確認しようとした矢先に何事もなかった後ろチェーンが前チェーンの状態よりひどい状態に陥って、車輪とギアを外さなければ直らないという、絶対に自転車屋さんか自転車に精通していて工具を一通り揃えている人でないと修理できないといった有り様で終わりました。
私は申し訳なさと悔しさと何がなんやらな状態で、ただ、謝りました。
少年は、「ありがとう」と言っていましたが、それの声は小さく、ただ、この状況にふさわしい言葉として言ったというような、それはそんな響きでした。
それを聞いて、やはり悔しくなりましたし、ちゃんと直してちゃんとお礼を言わしてあげれるようにしたかったと思いました。
お礼が聞きたかったわけでも、かっこいいお姉さんとしてカッコつけたかったわけでもなくて、言いたくないことを言わせてしまったような、少年に気を遣わせてしまったことが、すごく無力で。
男の人だったら力技で解決できたのかなと、そんな無力感もあって。

その時、今更ながら思ったのは、近くに自転車屋さんを知らなかったとはいえ、自転車屋さんまで運んであげるのが最善解だったということ。

できることはないので、少年を見送ってお参りをしてジョギングして帰えりました。

私はオタクで、ちょうど西尾維新さんの「猫物語[白]」を読んでいて、まるで私のことを揶揄しているかのようなところがあって、どんな本にも、それがいい作品であればその時の自分に合った何かがどこかにあるなと以前から思っていたけれど、なるほどその通りだと思って面白かった。
ちなみに、そこに合ったものとは違うけれど、私は性善説と性悪説については、どっちでもなくて、
『人は産まれながらにして愚かだ』
と思っています。

また、今日のエピソードを象徴するようですが、私は自分がどう思っていようと捉える対象がいいことだと思えば、善行する・施す方が相手を嘲笑していようが、優越感に浸っていようがどうでもいいと思っていて、そんな自分は善人でなくて偽善者だと思っています。

何書きたいのか、ぐちゃぐちゃでまとまんないけど終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?