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存在しない神に祈ることの価値

流行遅れの僕の携帯にサブスクが導入された。そこで恥ずかしながら初めてユーミンの『やさしさに包まれたなら』をフルで聴いた。

歌い出しの「小さい頃は神さまがいて」という歌詞がやはりとっても魅力的だ。なぜなら、僕にも「小さい頃は神さまがいた」から。あまりに自分に近い感覚に、これは僕の歌ではなかろうかと錯覚してしまう。きっと僕と同じように感じる人がたくさんいたから、大ヒットしたのだろう。

「小さい頃は神さまがいる」という感覚は、「守られている」ということだろう。僕は両親に愛され、何不自由なく幼少期を過ごしてきた。今抱えている将来への漠然とした不安など一切なく、無邪気な全能感に包まれていた。

我が家はクリスチャンの家で、昔はよく日曜礼拝にも足を運んだ。キリスト教の神を熱心に信じることはなかったが、愛されて育った僕にとって、キリスト教の柱である「愛」の教えは特に抵抗なく受け入れることができた。受け入れられなかったのは、十字架にかけられて痛い思いをしてまで人を助けるイェスの愛の深さくらいだ。痛いのは嫌だなあ、と。

中高もキリスト教の学校に通った。やっぱり神を信じたわけではないけど、それでも朝の礼拝で聴くパイプオルガンの音が大好きでとても心地よく感じた。

しかし、反抗期真っ盛りの当時の僕には、相反するもう一つの感情があった。それは「神はいない」ということだ。

もちろん、キリスト教の神を心から信仰したことは今までなかった。だけど、僕の中には「神的ななにか」があった。それは今思えば「愛」だし、ユーミンに言わせれば「やさしさ」だ。

「やさしさに包まれた」幼少期を経験した僕が、人の悪意とかズルさに明確に触れたのは中学生になってからだ。それまでの間、無邪気にいられたことはただただ生まれた環境に恵まれたと思う。

さて中学の僕が対峙した悪意とは、「いじめ」だった。所属していた部活動内でいじめにあい、中学3年までそれは続いた。顧問は僕が1年の頃からいじめの存在を認知していたが、問題視しなかった。今になって考えると、顧問はおじいちゃん先生だったので、子どもたちのおふざけの延長くらいに考えていたのかもしれない。しかし、当時の僕はそんな風に思うことはできず、顧問をひどく憎んでいた。結局、中3の夏、父と顧問と僕の三者面談が行われるまで、顧問は僕を助けることはなかった。

こうして初めて僕は「大人に守られない」ことを知った。「やさしさ」という秩序によって守られていた世界がこの辺りからガラガラと崩れ始めた。

世の中は「やさしさ」に包まれていない。薄々感じていた「やさしさ」信仰への疑念が、いじめを契機に確信となっていった。

この世に神はいない。秩序はない。
それまで秩序と感じていた「やさしさ」は、
父や母、愛のある大人たちによって作られたものだった。
世の中には顧問のような大人の方が多いかもしれない。だから、今までいた社会がちゃんとしていただけでそもそも世界はデタラメだ。

こうした思いは社会人になって一層強まった。何の後ろ盾もなく、むしろ自分が社会を作っていく側である。僕の行動が次世代の子どもたちの模範になるし、ふとした気の抜けた行いが彼らを幻滅させる。僕があの顧問になってしまうかもしれない。

そう考えると、幼少期のあの「やさしさ」空間は奇跡の場所だった。どこまでも「やさしさ」に包まれていて、完璧だった。
もう存在しない、完璧な場所……。パイプオルガンの音色と共にある、懐かしい、戻れない場所……。神はあの頃確かに存在した。

ビートルズに『ゴールデンスランバー』という名曲がある。

Once there was a way,
to get back homeward,
Once there was a way,
to get back home
Sleep pretty darling do not cry,
and I will sing a lullaby

昔は道があった
故郷へと帰る道が
昔は道があった
自分の家へと帰る道が
おやすみ かわいい子 泣かないで
僕が子守唄を歌うよ

和訳をするとこんな感じだろうか。
ゴールデンスランバーは日本語で「黄金のまどろみ」。僕もかつて「やさしさ」という「黄金のまどろみ」の中にいた。しかし、帰るべき故郷への道はもうない。



昨今、世界は苦しい状況に立たされている。
どんどん心が塞ぎ込んでしまう。
TVをつければ悲壮感の溢れるニュースばかりである。あの完璧な場所はどこへやら……。

ユーミンは歌う。

やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても奇蹟は起こるよ

本当に、「おとなになっても奇蹟はおこる」のだろうか。

こんなデタラメな世界であっても、あの頃の「やさしさ」を取り戻せるだろうか。「黄金のまどろみ」はまぶたの奥にあるだろうか。

そうであるならば僕は、今はもう存在しない神に祈ろう。

今はいなくてもあの頃確かにいたのだから、
あの頃の神を思って祈ろう。

それがきっと僕の中心で、帰るべき場所なんだと思う。祈りとは、自分の中に神という中心を持つことなんだろう。

僕の人生のバイブル『バガボンド』で、沢庵和尚は言う。

「しかねえ」じゃない。「最後は」じゃない。祈りがすべてのはじまりだ。祈ることができるんだ。どんなときも、我々は。



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