誕生日が同じ有名人

10代の頃、当時好きだったルードボーンズの大川さんが泥酔して泣きながら、バンド仲間に「1週間以内に太宰治を読め!」と言っていた、そんなエピソードをロッキンオンジャパンだか何だかで読んで、別に自分に言われたわけでもないのに、私は1週間以内に太宰治の小説を読んだ。

太宰の小説は、10代の私にはけっこう刺激的で、特に「如是我聞」ではボロボロに泣いた。

私はすっかり太宰にかぶれるわけなのだが、90年代・田舎者・ロック好き・10代という「全て」を兼ね備えた身としては、まあまあ順当な路線だったのではないか思う。

太宰を読んでいる自分に酔っていたし、作中人物に自分を重ね、ここにいるのは私だ…!みたいな、けっこう寒い思春期ではあったけど、寒くない思春期なんてまったく信用ならないものなので…。

そんな私がある日をさかいに、太宰を一切読まなくなった。

きっかけは、本屋で見かけた坂口安吾の「堕落論」。

タイトルからしてなんかビシビシきたし、即購入して、その日のうちに読んだ。で、太宰読んでる場合じゃないと思った。

随筆という形態で、共感を求めない文章が書けるというのは、つまり根底が清らかであるということに他ならなくて、安吾の私生活は本当にひどいものだけど、創作の出発点が安吾のように高潔な作家を他に知らない。

安吾は、件の如是我聞について、ボロクソにこきおろしていて、これはなかなか衝撃的だった。

今でも手元には安吾の小説は複数あるけれど、青空文庫に膨大な数の作品が公開されているので、隙間時間にちょくちょく読んでいる。

小林秀雄だろうと、夏目漱石だろうと、志賀直哉だろうと平気でこきおろし、座談会の前にウイスキー1本飲んで酩酊しただの、誰々と決闘をしただの、太宰治を冷やかしただの、昔と変わらず私を笑わせてくれる。


でも、安吾が自分自身を語る文章には、今でも訳も分からず泣けて仕方がない。

『私はいつも退屈だった。砂をかむように、虚しいばかり。いったい俺は何者だろう。なんのために生きているのだろう、そういう自問は、もう問いの言葉ではない。自問自体が私の本性で、私の骨で、それが、私という人間だった。』

安吾がこれを書いたのは今の私と同じ年の頃。そういえば、私は安吾と誕生日が同じなのだけれど、ちょっと嫌だなぁと思う。だって、そんなの、なんだか出来過ぎているように思えるから。

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