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思えば常に、ギリギリセーフの人生だった気がする

ページを開いてくださった方へ
はじめまして
長谷部敏子(はせべとしこ)と申します。
2023年3月より、埼玉(実家)と東京(自宅)の二拠点生活を始めたのをきっかけに、noteを始めました。

待ったなしの二拠点生活スタート

わたしたちの場合、もう、なんというか待ったなしの二拠点生活スタートでした。
わたしたちとは、わたしと社長(夫)です。

わたしは1968年生まれの54歳です。
最近、54歳でできなくなることが増えると聞いて、54歳の生物学的な意味があるのかないのか?
あとで調べよっと。
富士急ハイランドの絶叫マシン「高飛車」と「ええじゃないか」に乗れるのも、骨髄バンクのドナー登録も54歳までなのです。
一緒に仕事をしているので社長と呼んでいる夫は9歳上の1959年生まれです。

待ったなしの理由2つ

待ったなしの2つの理由で、二拠点生活を始めました。

  1. 母に農業を教えてもらうのがギリギリ
    母が90歳になり、自分のことは自分でできるけど、+αのことができなくなっていました。
    例えば、洗濯機が壊れたり不測の事態に対処するとか、そんなことです。
    受け答えはしっかりしているけど、母から農業を教えてもらうのはギリギリかなとも考えました。

  2. わたしたちも農業を始めるのにもギリギリ
    母もそうだけど、54歳(2023年10月に55歳)のわたしと64歳の社長が農業を始めるのもギリギリではないか?とも思いました。
    もちろん、今が一番若いです。
    でも、絶叫マシンに年齢制限があるように、人生のステージを変えるのには年齢制限はあるんじゃないかな?
    と思っています。

と、この2つのギリギリ感が二拠点生活の動機になりました。
実際、本当にギリギリセーフでした。
母が大腿骨を骨折したのは、東京で14年間続けてきたデリバリーのお店を店仕舞いした1週間後でしたから。
もし、お店をやりながら、入院準備や手術の付き添い、退院後の暮らしの手配あれこれをこなしていたら、わたしが倒れたと思います。
ちょうど、3月は、息子の大学の合格発表、入学手続き、卒業式、入学準備がありました。

その後、母は周囲が驚く回復力で、農業に復帰します。
これまでのようにはできませんが、育苗ポットへ種まきや、じゃがいも掘り、野菜のパック詰めなどはお手のものです。

思えば常に、ギリギリセーフの人生だったかも

思えば常に、ギリギリセーフの人生だった気がします。
何をギリギリと思うかも、セーフと思うか思わないかは主観的なことだと思います。
ある人は、セーフじゃないよ?
遅いくらいじゃない?
と思うかもしれませんが。

息子の大学合格もギリギリセーフでした。
3月から二拠点生活は予定していましたが、母の骨折は突然のことでした。
4月に、母に、わたしのリソースを100%突っ込むことになるとは予想していませんでした。
東京の自宅に、浪人生を残すのと、大学生を残すのとでは、心持ちが全く違います。

親塾、やってたので

ここで、息子のことが出てきたのは、小中学校の間、息子の勉強はわたしが見ていたからです。
小中校と公立で中学受験はしませんでしたが、今で言う親塾だったと思います。
中学受験しないからって勉強しないでいいわけないよね?
と、小4の頃から公文の通信を始めて、先生はお母さん(わたし)でした。
高校受験までは見ることができましたが、さすがに大学受験の時は戦略面でのアシストするくらいでした。
こうして、親塾として関わってきた時間が長いので、志望校合格は、ギリギリ間に合った―!
と、母親としても親塾講師としても思うのでした。

note、始めました。

2023年1~4月は怒涛の内に過ぎました。
それを受けて、5月は、ぎっくり腰からのコロナ(息子からうつりました…)の療養で消えてなくなりました。
6月、ようやく自分のペースを取り戻してきたので、noteを始めました。
note、実は、ずっと憧れていた気がします。
昨日、noteを久しぶりに開いてわかったのですが、登録したのは5年前でした。
そして、大学生の頃「文章を書く人」に憧れていたことを思い出しました。
作家は村上春樹さんくらいでないと名乗れないと本気で思っていたので、控え目に「文章を書く人」です。
自分が「文章を書く人」になってお金を稼げるとは思えなかったので、就職して会社員になりました。
当時は、ブログもSNSも、ノートパソコンもありませんでした。
でも、今なら、「文章を書く人」にならなれます。
言ってしまえば、今日からわたしは「文章を書く人」なんですね。


#自己紹介
#二拠点生活



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