当事者ではないけれど、そのさきに想像を巡らすこと。

私は絶対に、その事件や事故の当事者にはなれない。

だって、当事者じゃないから。


この世の中には、悲しいことや苦しいことが沢山あって

時には、なんでこんなことが。

と、怒りに震えそうな出来事があって

一緒に怒ってしまいそうになる。


そのことが、自分の身に起きたと想像したならば

身の毛もよだつような恐怖と悲しみが襲ってきて

絶対に、嫌だ。

こんなこと誰の身にも起きて欲しくない。と強く感じる。


だけど、やっぱり私はどこまで行っても

他人であって、当事者でもなく

当事者の近しい人でもなく

ただの一般人で、外側の人なんだ。


その人の気持ちを想像してみたり

共感を持って、悲しむことは出来ても

当事者になることはできない。

し、その人達を直接知っている訳ではないので

本当の意味での寄り添いなんて

多分、無理だ。


でも、それでも、当事者ではないけれど

その先に想像を巡らすことは

とても大切なことだと思っている。

その先への想像を持つことで

きっと、人は他人に寄り添おうと思えると思うし

一緒に、その痛みをどうにかしたいと

思えるようになると思うから。


そして、その事件において

加害者と呼ばれる人達がいる。ということも忘れられなくて

被害を受けた人の悲しみや怒りを想像するのと同時に

では、なぜ、被害者を作り出してしまう

加害をする人がいるのか?

なぜ、その人がそうせざるを得ない。と

思ってしまうような場所まで

行き着いてしまったのか?

なぜ、そういう行動しか取れなかったのか?


加害者とされる側の

その先へも、想像を巡らせてほしいと思うのだ。

そんなことを、このブログを読んでから

悶々と、朝から考えていた私。

この苦しい世界で、

多分、このヒデさんのブログを読んで悶々と考えてしまったのは

ちょうど、先日読んでいた本に

「なぜ人と人は支え合うのか」

やまゆり園の加害者と何度も会っている人が書いた章があってね

そこで書かれていた、その人なりの見解があって

それを思い出しながらだったのでそうなってしまったんだろうなぁ。って。


ある一方の方向からしか見れないのは

1人の人間が見る方向の種類なんて高が知れているから、

それは仕方ないとしても

それが、その自分が見ている方向が絶対で、正義で、間違っていない。

と考えるのは、怖いなぁ。と思っていて

それは例え、加害者側に対する怒りだったとしても

そこは、ちょっと踏みとどまって

それを、その怒りの感情を見つめる必要があると思っていて

だって、私は、その加害者の人となりを

実際に会って、話してみて感じた訳ではないし

ましてや、その事件を起こすまでの加害者との

接点も、一個もない訳で

そう考えてしまうと、ほんと、何にも言えないし

発言しようがないなぁ。と思ってしまうのです。

確かに、世の中には

自分が犯した罪を、本当に悔いているのか

疑問を持ってしまうような言動の人もいるかもしれないし

それに対しては、きっともっと心理のプロが

向き合って行ってくれると思うのだけど

私は、思うのです。


そして、今回の痛ましい事故を起こしてしまった人というのは

この記事の人みたいに加害の側に立ってしまった人も

そこに留められてしまうのだと。

私が小さい男の子を殺した日――交通事故加害者の消えない記憶


この二つの事故と事件を

並列に語るのは、もしかしたらちょっと違うのかもしれないけど

どちらのニュースを見ていても

確かに許せないし、怒りが湧いてくるけれど

それを、加害者へぶつけたとしても

何も産まないんじゃないかなぁ。

私たち、じゃあ、何が出来るだろうね。って

自分たちが出来ることを考えるか、

想像して想像して想像しまくって

自分の生活の中に、何を感じて考えさせられたかを

反映することしか出来ないんじゃないかな。と思うのです。

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