悲しさベースで構築される人生

急に休みが取れたので、祖母の家に行った。
体が会うたびに弱っている祖母を見ると絶対に辛くなるので、彼女の家に行くときはなるべく明るくいれるように天気のいい日に行くと決めている。

会いに行く、とはいっても、何か目的があるわけでもないので、駅前のスーパーで調達するお土産の中身と会話のネタをどうしようかと迷いながら電車の中を過ごす。ポカポカだからうたた寝もする。 そうやってゆっくり会うための心を作っていく。

また足腰が強かった数年前まではしきりに、いい学校に行きなさい!と言われ続けていたのに、就職した途端、早く結婚しなさいと言われるようになった。
祖母の目にはそんなに私の人生はゆったりに見えるのか。私は今でも毎日が目まぐるしくって、そんなに素早く次々とステップを踏めない。
それとも、自分の日々に鮮やかさが無いから、人に求めてしまうのか。
しわしわのその手はもう赤や黄色で彩られたおせちを作れなくなった。これからもっと色んなことが出来なくなっていくことを思うと、なんとも言えない気持ちになる。

老いは怖い。老いるということは未知なる未来が減るということで、その分無根拠な希望も絶望も減るということで。経験ばかりが自分の後ろに残っていく。それは喜びにも悲しみにもなる。

手術をするか迷っている彼女は、「今治してもどうせまたそのうち他のところが悪くなるし、そんなんしてる間にもう死ぬやろし、意味がないのにねえ」とつぶやく。私は、そうかあ、としか言えないでいる。

どれだけ、いつでもどこでも捧げた祈りでも、叶わない祈りがあることを、年を重ねる度に思い知る。変わらない未来があること、想いを叶えるほどの未来が残されていないことを知り、打ちのめされる。

彼女がもっと元気になるようにと願って、もし元気になったとしても、彼女はいつか死ぬ。それを知っていてなお、元気になるようにと祈り続ける人、最善を尽くし続ける医者、支え続ける介護士さんはすごいと思う。
全部いつか終わるものなのに。

一方で、まだ未来が長々残っているであろう私の目は希望に溢れているかというとそういうわけでもない。

中学生になったら大人だから何でもできて楽しいだろうと思っていた幼い頃、楽しかったけれど100とは言い切れなかった中高時代、20歳が人生のピークで、その歳になってからが一番楽しいだろうと思って生きてきたティーン、あっけなくなってしまった20歳、働いてからが本当の楽しみだと思った大学時代、正直昔の方が全然楽しかったと思う今、30歳に想いを馳せる今。
きっと自分が憂いている今この瞬間が一番楽しいはずなのにイマイチ掴めていない人生。
自分の思う幸せにはいつまでもちゃんと到達できないような仕組みになっているんだろう人生は。
(むしろ到達してしまったらそれはそれで一番怖くなるかも)

私は、これらの絶望をきちんと咀嚼できるほどまだ大人では無い。
だから、ファストな希望で食いつなげていく。今日も何とか。

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