私がなぜできもしないのに言葉を紡ごうとするのか

詩は難解であるし、安易に「わかった」などとは言えないものだとは思うが、「この詩がわたしをわかってくれた」と思うとき、わたしたちは否応なく、自身と詩を重ね合わせているのではないかと思う。それは、理解という水準ではなく、感応という水準のものであるのだが、それを混同してしまうと、詩と自身との関係は、あやういものになってしまう。

だからこそわたしがこれからなすべきことは、他者の見せてくれるあたらしい世界を見ようとすることなのではなく、自らの詩作を通して、じぶんであたらしい世界を発見しようとすることなのだろう、と思った。詩をつくることは、いままでのじぶんを打ち捨てることであり、世界からはぐれていくことであり、他者から遠く離れてひとりになることである。他者の生み出したものに対して自らの内面を認めるという追認ではなく、わたしのつくった詩が、他者に「追認のよろこび」を与えるものになるように。

そして、わたしの発見したあたらしい世界が、他者にひらかれるように。詩を生み出すという営みに、真剣に向き合うときにきているのだと思う。いままでのやり方とはまったく違うやり方で、わたしはじぶんのうちにある創造性を用いていくべきなのだ。もう、そこまできている。それこそが、いまのわたしがやることだ。

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