清々しく解散したplentyを聴く高校一年生の秋から数年経ちやはり私の中にはplentyのデジタルな音が刻み込まれているなと思い知らされる閉鎖された空間

本当にありえないと思った。
人の親切心を仇で返す、というか、利用して自身の欲を満たそうとする人間に吐き気がする。誰も、誰も助けてくれずに、恐怖心だけを待ち慌てふためき、何をすることもできなかった。涙すら出ませんでした。おかげで私はライブには行けず、電車に乗るたびに人混みに行くたびにそわそわし、肩を叩かれるだけで思い出し、腰回りや腕の強い感覚は忘れららない、ただでさえ怖がりなのに人気のない道では心が痛くなるほどの恐怖心に襲われるようになってしまった。
そんな時、咄嗟に口から出た音がplentyの音楽で、私は自分で何が起きたかわからなかった。

中学3年生の終わりに初めて出会って、当時はSNSもやっていなかったからYouTubeと中古のCDだけを頼りに何度も聴いていた。
Instagramをはじめた高2、ふとplentyを調べたら高一秋ごろに解散してたんだっけなあ。いまでも聴くし何度でも頭で流れるけど、いくら聴きあさってもデジタルの音しか知らないのが悔しい。
怖さを紛らわすための音がまさかplentyだとはね。
江沼さんは今でも音楽を続けている。それをplentyと重ねて聴いたことは一度もない。ただ、江沼さんがplentyの江沼さんだったら今はどんな、と思うことはある。
一度もライブに行ったことない、もういけない、という執着があるからこそ根っこになつて私の中で強く広く生きてるんだろうな。

「悲劇のヒロイン」って言葉があるのに「悲劇のヒーロー」がないその非対称性こそが、女性の苦しみが軽視されてきた証左だなあと思うなどしている。今の社会では平等に扱われることが増え、きっと「悲劇のヒロイン」を批判する声も増えているのだろうな。
「語り」には性別を問わず主観が混ざるものなのに、女性が自分の言葉で苦しみを語ると、悲劇のヒロインという言葉で片付けられてしまっていたんだ。なんとまあ、。

またplentyに戻りますが、彼らの(彼の)曲は歌詞は聴き手1人に語りかけてくれる。簡単な言葉で片付けずにちゃんと聞いてくれる。尋ねてくれる。

私がもう誰にも話したくないと塞ぎ込んだのに、辛かったとちゃんと言わせてくれる。
強がって、なのか、あまりに嫌でなのか分からないけれど、平気平気と手を振ってヘラヘラとしてしまうのが私の良くないところですが、辛い辛いと泣かせてくれるのは音楽と言葉の力だなと思います。かつてplentyから学んだことをまた思い出し実感した。だからか。だからこんなにも恐怖心で溢れているのにplentyをしたんだな。

結局、助けてもらったと言ったが半分嘘で、逃げようとする中で通行人に肘ががぶつかり、それに対して通行人が怒り話しかけ、それで、だ。全く。良心ではなく怒りのお陰で助かるとは。嫌な社会だ。東京は優しい街だと思っていた。

さてと、とにかくどうにか書かなくては外に出さなくては私1人でかかえるにはあまりに怖かったので、書くことすら手の震える思いだったけれど、好きなように時間をかけて書けて、これでいいか。特にこの文章のまとまりもないしplentyだってたまたまそうだったからついでに書いただけで、なんとまあしょうもない文章になってしまったわけだ。

最悪だ。なにがって、文章を道具として使ってしまったように感じる。言葉に慎重で文章に敬意を払っているのに、いるはずなのに、ごめんね。私のせいで言葉の神聖さを侵害してしまってごめんね。あーこわいなー、という気持ちをこれからもヘラヘラとして躱すように生きていこうねー。おしまーい。

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