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尊重と、それから仲間が欲しいね

わたしという存在が認めてもらえないこと、悲しいし悔しいし、何より、わたしの望むようなわたしであることを否定されるのは、存在していていいのかという不安や恐怖につながってしまう。
この恐怖は容易に二次的感情である怒りに結びつくし、だからこそ論理的な文章は書けないなと思ったから、自分にトーンポリシングをしない意味でも、社会的にこうあるべきと期待される中心的・典型的な文章ではない周縁を体現する意味でも、存在とそれにまつわる感情、それに関わる理論や制度、というものを混ぜながら書くことが増えた。

本来的にこれらは有機的に結びついているが、一般化している、切り分けられ整理され、一貫性を持って線条的に並べられ、きれいになった物語が削ぎ落としてしまう、見えなくしてしまうものは大きいと思っている。それを掬い上げるため、ないことにしないため、抗うために書いた。

「わたしは魔女として生きていくためにこういう暮らしをしたいのですが、いい流れや縁やタイミングがあると思っているので、のんびり生きていきます」「わたしの人生なので」と素直に笑って言うだけでは、まだだめなのかあ、と思った。

愛と光の存在だし、相手がどんな気持ちや背景でわたしに何を言うのかが理解できるから、慮って、わたしなりに愛だと思える範囲内で伝えてきたが、それだけではわかってもらうのは難しいみたいだ(奴隷の言葉は主人には理解できない)。ただでさえ年齢という権力勾配があり、数も少なく、有徴化され、マイノリティ性が高いので、加害(特に、マクロアグレッションを受けたり、勉強しているがゆえにアンコンシャスバイアスに気づいてううっとなったりする)を受ける可能性によりさらされている。そのうえ、年齢による権力勾配と心理的安全性が保たれていない場にいることが理由で、傷ついたということとその問題点を指摘するにはあまりにも精神的・時間的な負担や制約が大きい(傷ついた人が問題を指摘すべきだという価値観の問題点については、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』を参照のこと。また、わたしは当事者性だけがすべてだという分離主義は取らない)。

わたしも大人(一応)なので社会的責任を果たしたいと思うが、権力がなく仲間もいないのに、ひとつひとつに傷つきながらそれでもわかってほしいと伝えることは、正直に言うと本当につらい。

ひとは誰しも、そんなに強い存在じゃない。たった一人ですべてに対処し解決できるほど、強くないし、強くなくていい。だからわたしはこれからもわたしができることしかできないし、休みながらこういう問題に向き合ったり考えたりすると思う。

どこにいたって、異なる存在の異なるあり方を尊重すること、決めつけたりコントロールしたりしないこと、もっとあたりまえになってほしいなあ。そのためにわたしができることはやるつもりだし、できることの一つであるこの文章をもし最後まで読んでくれたひとがいたらそのひとのタイミングでなにかを受け取ってもらえたらうれしいなと思うし、傷つけてしまっても傷ついてもそれでもともにやっていこうねと言える仲間がほしい。仲間がほしいね。


長めの追記〜
好きな音楽や思うことについて、最近はよく文章にします。ただそれが見当違いなことを言っていたり、読んだ誰かを嫌な気持ちにさせたり、違うのにという気持ちにさせているんじゃないかと思うんです。その度、外からの力で肺が小さくなってくように感じて苦しくなるんです。じゃあなんで書くの、というと、私は大切や愛を伝えることが下手くそでそれしかやり方を知らなくて。それに、ひとつひとつの気持ちや考えを言葉にし続けると誓ったのです。だから苦しくなっても伝えたいこと知ってほしいこと嬉しいこと悲しいこと素敵だと思うこと、好きなこと、書くんです。
直接伝えない言葉はうまく受け取ってもらえなかったり上手く伝えられなかったりするから、とても難しい。でも、よかったとか、こう思ったとか、読んだだけの報告とか、それがあると、届いたという事実を知ることができて、少し楽になるんです。
うーーーん、上手く書けないな。
とにかく、私は苦しくなるくらい真剣に言葉と向き合っているので、どうか届いてね。

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