理解

くるしみの分母は、そのひと自身だけである。

 そのひとのくるしみを、そのひとのかわりにくるしむことはできない。

 それは、くるしみだけじゃなくて、かなしみも、つらさも、さみしさも、こわさも、ぜんぶおなじだ。もちろんきっと、うれしさや、たのしさや、よろこびも。

 ひとは自分自身でしかいられない。わたしはわたしでしか有り得ないし、あなたはあなたでしか有り得ない。そのことにまつわるくるしみと解放感は、同時に存在している。
 わたしがあなたになれないことも、あなたがわたしになれないことも、考えてみればあたりまえなのに、じつはすこんと忘れていることが多い。相手のことをわかっているつもりで本当はわかっていないのだということが、わかっていないのだ。もちろんそれは、じぶんのこともふくめ、すべてだけれど。
 他人のくるしみに寄り添うことは、そこからしかはじまらないのだと思う。絶対にわかることができない、という事実に気づくこと。そして、その事実の恐ろしさに打ちのめされずに、立ち向かうこと。絶望しないこと。わかることができなくても、それでもわかりたいのだと願うこと。傲慢さと謙虚さ、やさしさと後ろめたさ、利他的と利己的の間で、ずっと揺れていること。
その揺らぎがなければ、きっとそれはただの自己満足だ。一人で自分に酔っているだけで、やさしさでもなんでもない。のかもしれない。

 相手の手を引くちからがないのだと知ってなお、しゃがみこむそのひとのそばにいっしょにしゃがみこみ、蟻の行列や、あたりで風に吹かれる花や、なんでもないような小石たちを見つめる。そんな、ばかみたいな愛が欲しい、と思います。

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