短歌と意味

「海」と聞くと、心が南を向くのは太平洋側に育ったからだろうか。日本海側に育った人は北を思うのだろうか。知らないおじさんに乗せてもらった漁船から海へ飛び込んだ時、踏み込んだ足の力で船が少しだけ沈んだのを鮮明に覚えている。


中学生の頃からずっと、こっそりと、詩とも小説ともつかない言葉をノートや携帯のメモに、落書きのように書き続けてきた。コップに揺れる水を見て、すぐに海とつなげてしまうような浅はかさ。ノートの文字は消えなくとも、ノートはいつしかどこかに消えてしまったし、携帯のメモは機種変更とともにどこにもなくなった。

短歌は元々なんとなく読んでいたけれど、決定的に短歌という存在を意識し始めたのは、母の本棚から偶然に手に取った俵万智さんの『あれから』を読んだ時からだった。タイトルは「東日本大震災から」という意味らしい。当時、仙台に暮らしていた俵万智さんが子どもと共に石垣島へ移住するまでを詠んだ一冊だった。三十一音という定型に収められた言葉の強さに打たれた。

短歌は素晴らしい。どんな言葉でも思い出でも気持ちでも情景でも、三十一音に収めるだけで歌と呼ばれるようになる。わたしの言葉がわたしの歌になる。それがどれだけ素晴らしく美しく尊いことか。わたしはまだそれを説明できるだけの言語を持ち合わせていない。

普通に生きていることがどれだけ素晴らしいか。ただ暮らしていることがどれだけ素晴らしいか。あの日から突き付けられ続けてきたように思う。生きていることや今のこの瞬間の自分の言動に、大きな意味を求めたくなることはあるけれど、やっぱり私達は無意味な時間を精一杯過ごしているだけに過ぎない。

紐がうまく結べなかったり、ビニール袋が風に膨らんで飛んだり、打ち寄せる波の半分が砂浜に染み込んだり、君の眼鏡を勝手にかけて遊んだり、開けっ放しのペットボトルを投げ渡してみたり、海に来て悲しくなったり、海に来て嬉しくなったり。私達はいつだって無意味で、だからこそ美しい。誰かにとっての意味ではなく、ただ私達にとっての意味にあふれる世界を生きている。

短歌は、世界の無意味を私達の意味へと変えてくれるんだ。

あなたがこの文章を読んでいる最中に、おなかがすいたら、洗濯の終わりを知らせる音が鳴ったら、どこか行ったこともない場所で誰かが転んだら、短歌を詠んでみてほしい。きっと三十一音という韻律で、世界のすべてが自身とつながっていることを感じるはずだ。

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