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『ハンバーグ』


 
「君の作る料理はとてもマズイ」親にも友人にもそう言われて育ってきた。手料理を振舞った初めての彼氏は私の得意料理を食べて三日間寝込んだ。でも人間の価値を決めるのは料理だけじゃ無い。料理という物は人生において少しだけしか意味を持たない。そう思うし、そう思いたい。今まで数人の男の人と付き合ってきたが、手料理を振る舞うくらいの仲になればそれは潮時を意味していた。そんな中、私の最初で最後の料理の不味さを受け入れてくれる人が居た。
 
 二
 
 最近いいことばっかりだ。でも、今日だけはクソだと思う。今、受けてる講義の教授がすごくムカつく。なんだ、その少しだけ生えた髭と、オールバックの髪型、口調がワイルドを意識してるのだろうが空回りしているし、本当に気持ち悪い。吐き気がする。ワイルドなつもりか?酷くムカついてきた。
 
 三
 
 いつも通りハンバーグを作った。彼氏の目には涙が浮かんでいたが、完食しているのを見て嬉しかった。一口食べて逃げる人もいたから。
「作り方教えるよ」冗談半分で彼が言う。うるさいなと私は笑いながら言う。
「ところで、この味を他の人にも食べてもらいたくない?」彼が言い出した。
「嫌だよ、一応コンプレックスだし」
「ちょっと失礼なアイデアだけど、大学の僕が嫌いな教授に食べさせていいかな?」
 一通りその教授のアンモラルな行いや許されざる点をいくらか挙げられた後、私も憤慨していた。かなりの時間をかけて、稀代のクソマズハンバーグが出来た。そのクソマズハンバーグは見た目だけはレストランに出されてもおかしくないクオリティだった。極めて公正に見て、いつもの彼女の作るハンバーグは見た目も味も総じて酷い。それは全くの比喩では無く、老若男女、おそらく地球人以外ですらキッチンの隅っこに、なんらかの齟齬や怠惰により現れたゴミカスのような印象を持つはずで、「あ、これは食べちゃダメなやつなんだな」と察せる。だから、今回はそうでは無いのが酷く悪質だ。材料はなんとミンチより砂糖の方が多く含まれてる。それがマズさに拍車をかけている。その他にも色々なキワモノが入っていて、料理という営みにあるまじき「致死量」という概念がスレスレ、あるいは大幅に超過している。その切れ端を、試しに二人で近所のレストラン裏にいたネズミに食べさせてみたら、なぜか膨らんで死んだ。破裂はせず、情けなく膨らんでアスファルトの上に転がっていた。その状態に至るまでに三十秒はかからなかった。何かとてつもないものを生み出したかも知れないという、いくらかの興奮とこれを、悪人とはいえ、人間に摂取させていいのだろうかという不安で僕は、このクソマズハンバーグは大丈夫な物かと訊いた。彼女は生涯一ほどの熱量で市販の食材しか使ってないと言い張ったので信じるしかなかった。冷蔵庫及びキッチンの二段目の引き出しに詰め込まれた、消費期限が切れて半年は経った食材達も彼女に同意していた。
 
 四
 
 教授にプレゼントするのは彼女がいい。教授は男に厳しく女に、特に美女に甘い。「教授、これ、作ってみたんですが。」色気を湛えながら彼女が渡してるのをこっそり見ていた。「僕に?」「はい。いつも講義楽しませてもらってます!」タッパーに入ったハンバーグを手渡した。その後、卒業するまで僕達は教授を見なかった。今日の講義は休むというのがつづいていると僕は彼女に言ったら彼女は本気で喜んでいた。
 
  五
  
 今日は買い物をする。私は捨てるのが苦手なので冷蔵庫は、いつも沢山の食品で詰まっている。子供の頃に腐った魚を謝って食べてしまったが、お腹を壊さなかった為、食品の腐敗という概念を信じていない事が私のその悪癖を正当化している。レジ袋三つを手に、横断歩道を渡っていた時、青信号にもかかわらずトラックが走ってきた。止まる事は無く、私も避けることが出来なくて、そのままぶつかってしまった。死んでしまうんだ、そう思った瞬間、今日までの人生が全てフラッシュバックした。「作り方教えるよ。」彼と、あの冗談を言い合った日々。私は、彼の事を本当に、好きだったんだ。もし、あと少しだけでもそばにいられたら、また、クソマズハンバーグを作ってあげたい。そう思った。その時、眠りから自然に抜け出すように目が覚めた。すると私は、少女になっていた。その少女にも生活があって、家庭に属していた。そこで少し生活してから分かったが、その少女は、母の顔を見れば心の奥深くが言い難い感情に包まれ、父の顔を見れば、優しい気持ちになる変な子だった。だが、少女である事は、ずっと続く訳ではなく、その身体の持ち主と入れ替わるように意識が途切れ、また、気がつけば少女になっていた。しかし、初めは何日か続けて少女であったが、それが半日になり、三時間になり、どんどんと私がその少女である時間が減ってきていた。七年程経った頃には一ヶ月に三分程度の頻度になり、その上、私が少女になった時、身体は目と口しか動かせなくなっていた為、貴重な時間は虚を眺め、浪費した。それは、少女が自分の人生を歩み始めていた事を意味していた。
 
   二章
   
   六
   
 僕の彼女の料理はとても不味かった。中でもハンバーグはダントツで不味かった。食材全てに砂糖を入れるのが致命的な不味さを作り出す秘訣のように僕は思えた。何度も作って貰ったが、腕を上げることは無く、ついに大学三回生の頃、彼女はハンバーグはおろか他の料理も上達せずに事故で死んだ。
 僕はその知らせを聞いた時泣き崩れた。葬式から帰った時、冷蔵庫にタッパーに入れて残ってた、彼女が買い物に行ってる時、僕にレンジで温めて食べてもらう為にあらかじめ作ってくれてたハンバーグを食べる事にした。彼女がこの世に居た証拠を今、取り入れなければ、絶対に僕の中から消えてしまう気がしたから。
 こんな時には味なんて気にならないと思ってたが、度を越したこの不味さは、いつ食べてもほんとうに不味くて、マズくて、まずくて。形見という情けをかけてみても、吐き出したくなった。砂糖をふんだんに使うからサトウキビがそのまま入っているように甘くて、中途半端な空気の抜き具合によって中に空洞ができていて、咀嚼する度にバラバラと崩れていく。ソースは彼女の貯蓄癖により宿命的に消費期限が切れたトマトを使っているのでツンと鼻の奥を突き、後先考えず鼻の穴に水を流し込みたくなる衝動に駆られる。
 その形見クソマズハンバーグをひと口食べて床に吐き捨てるか逡巡した後、苦心して飲み込んだ時、僕は泣いていた。それは決して苦痛からでは無く、彼女を喪った寂寥と後悔からだった。僕が彼女に「作り方教えるよ」と冗談を言う日々が鮮明に呼び起こされた。もし、彼女に逢えたら、僕は心の底から謝ろう。もし、それで彼女が許してくれたなら、二人でハンバーグを作ろう。マズくたっていい。彼女と作るハンバーグが僕にとって最高の御馳走なのだから。

   七

 それから、大学を卒業して、料理が上手い妻と結婚して、いい職にも就きました。そして、三十歳になった頃に子供を授かりました。女の子。気づけばもう九歳で、最近、娘は大人の女性に憧れてるようなのですが、私のコンプレックスである三十四歳くらいの頃に出来た、おでこのシワをイジって来たり、ハンバーグなんかが好きだったりするし、食卓では人参も残すし、肘もつくし、礼儀や品格が足りないみたいで、まだまだ道のりは長いみたいです。しかし、娘は、月に一度程度ですが、虚をじっと寂しそうに見つめています。私にはその寂しさと虚しさを湛えた眼が、娘が私と妻から産まれた一つの命とは全く無縁の大人の女性になってしまったように感じられ、私も寂しく、哀しくなります。もし大人になる事が娘にとって何らかの喪失であるのなら、私としては、ずっと幼いままでいて欲しいと切に願います。
 
   八
 
 今日は妻が高校の同窓会で、娘と二人きり。パパ(ほら、まだ子供ですよね)、ハンバーグ、作ってよ。そんな事を言うのでハンバーグを作ってみたが酷く不味いらしい。自分で食べてみてもマズかった。ひと口食べて吐き捨てるか逡巡してるのを見た娘が苦笑いで「作り方教えるよ」と言った。私は、いつかまた出逢えることを夢見ていた、ある女性の残り香が娘から漂っているのを感じた。しかし、それは混ざり、失われつつある事も同時に感じた為、謝罪も、取り乱すことも出来なかった。だから、ずっと彼女としたかった事をしよう。零れてしまった涙は頬を伝い、私は、「今度は、二人で作ろうよ。」そう言った。
 時計は午後六時を指していて、夕陽の柔らかな橙色の光が雛鳥の羽ばたきのようなほんのささやかな風と共にダイニングへ入ってくる。その風は暖かくて、コップの中の氷が溶けだしてカランと音を立てた。
 
 父と作ったクソマズハンバーグを食べた時に父の眉間に現れたシワと、おそらくマズさによる涙を見ながら、砂糖をもっと入れたらいい味になるのにと思った。父はなぜか私の記憶の中の誰かに似ている。私が今よりも幼かった時には覚えていたと思うのだが、今は少しだって思い出せない。しかし、たった一つ、その人は私にとってかけがえのない人であった事だけは覚えている。

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