「3杯セット」という考え方
池袋ジェイズ・バーで僕が「3杯セット」を始めてから今年で13年になります。
最初のうちは僕の意図が伝わらず歯がゆい思いもしたし、批判的な人もいたけれど、少しづつ受け入れられ理解され、ウチの店のお客さんには十分に浸透して活用してもらっていると思う。
僕としては嬉しい限り。
気軽にウイスキーを試してもらうのには良い仕組みだと思っている。
あなたがウイスキーを始めたいと思うなら、2,750円だけ払うつもりで気軽に来てもらって構わない。そんな風にでもあなたのウイスキーが始まるなら僕は嬉しい。
ちなみに、池袋ジェイズ・バーは、
チャージ・サービス料、一切いただいておりません。
とは言え、その共感の輪が広がるのに、いささか時間がかかり過ぎたという気もしなくもない。年の初めに改めて、長らく続けてきた「3杯セット」という仕組みについて説明したくなりました。
1)はじめに
今日一日の締めくくりに、人は酒場にやって来るのだろう。
新しい明日のために、終わらせなければならない今日もある。仕事が終わって眠りに就くまでの時間、誰にだって聴いてもらいたい話のひとつやふたつはあるはずだ。話せる相手のいない人や、近しい人にこそ話せない話もある。
ふらりと一人で訪れて、そこに気が重くなるような利害関係のない場所。
それがバーなのだと考えている。
ウイスキーは自分との対話の触媒となる。あるいは、他人との会話に緩衝材となる。僕らはウイスキーの周りに集まって、あなたがカウンターに座るなら、その向こう側の僕らも、隣の誰かも、大概はウイスキーを愉しむ人なはず。僕は池袋ジェイズ・バーをそんな店にしたいと思っている。
僕らの間にウイスキーがあるなら、僕らは安心して同じ空間を共有できる。
バーというのは最低限の公共性の守られた、とてもプライベートな空間だ。特定の誰かを締め出すために存在するのではなく、その場所を大切にするすべての人を馴染ませるためにある。
僕が言いたいのはこういうこと。
僕が大切にしていることを、あなたも大切にしてくれませんか?
言葉にして出すことこそ少ないが、自分の店の安全を保つため、心の中でそんな風に皆さんに問い掛けている。そして、僕の店を大切にしてくれるお客さんを僕は大切にしている。
ウイスキーは酩酊を手に入れるための手段ではないというのが僕の基本的な考え方だ。愉しみを手に入れることを目的として飲んで欲しいと思っている。もちろん、飲めば酔うことは確かだが、それは結果であって目的ではない。
酩酊を必要としない飲酒習慣を身に付けることは、あなたのこれからの人生を安全で豊かなものにするだろう。そう、ウイスキーはちょうど良い。それが、僕の考えだ。
僕は長らくお客さんにウイスキーを飲ませる仕事を続けている。僕の店で初めてウイスキーに触れて、その魅力に気付く人がいる。でも、残念なことに世の中には気付かずに素通りしてしまう人もいる。その違いは何なのだろう?僕は長らくそのことを自らに問い続けて来た。
もちろん、ジェイズ・バーに来る以前から興味や関心が高い人もたくさんいて、気持ちの赴くままにウイスキーを愉しんでいる。一方、かつての苦い記憶から「ウイスキーが苦手」と思い込んでいる人もいる。
僕に言わせれば、悪いのはウイスキーではないだろうとは思うけど。
僕も長らくウイスキーを飲んで来た。初めて飲んだウイスキーをどのように感じたのかは、よく覚えていない。ただ、ウイスキーの飲めるカッコ良い大人になりたいと思っていたのは確かで、その時ウイスキーを飲んでいる自分に満足していたことをよく覚えている。
少しばかり長い話だが、お付き合いいただけたら嬉しく思う。
2)愉しむ人が持つもの
ウイスキーにはハード・リカーの弱みというのがあるのだと思う。それはまさに蒸留酒であること。その度数の高さは多くの人を寄せ付けない部分がある。確かに、度数が低いアルコールには相対的な「飲み易さ」があると言って良いだろう。
人が口にするものなのだから、身体に「合う」「合わない」、そもそもの「得手」「不得手」はあるだろう。相性のようなものだ。でも、ウイスキーの魅力に簡単に気付く人と気付かない人の違いを、僕は上手く説明できない。簡単に言えば「ご縁」ということかもしれない。
だけど、ウイスキーの前を通り過ぎて行く人たちのことを「ご縁がなかった」と諦めるしかないのだろうか。僕には少し、そのことが切なかった。ならば、その魅力に気付いた人とそうでない人の違いは何だろう?
どちらかと言うと、僕はウイスキーそのものより以上に、それを飲む人に関心が高い。人がどのようにそのウイスキーを感じているか?その人の中で、そのウイスキーはどのようにリアルなのだろうか?僕はいつだって、そんなことが気になって仕方なかった。そんな眼差しで飲む人に注目しながらウイスキーの周辺を生きている。これまでも、これからも。
もちろん僕は、ウイスキーを愉しむ人が増えることを望んでいる。そんな僕から見ると、ウイスキーの魅力に気付き、既にウイスキーを愉しんでいる人たちには、いくつかの共通するものが存在する。
まず「始まりの時」があり、そして「感じる身体」を手に入れ、やがて「目論見」を持ってウイスキーを愉しむようになる。人生の半分以上をバーテンダーとして過ごし、僕はウイスキーを愉しむ人たちの共通点をそんな風に見るようになった。
当たり前ではあるけれど、始まったから愉しめている。「始まりの時」をきっかけと言って良いかもしれない。また、簡単に説明するなら「感じる身体」とは目の前の一杯を愉しむ態度であり、「目論見」とはまだ見ぬ一杯を想像する態度だ。
「始まりの時」と「感じる身体」と「目論見」。
「既にウイスキーを愉しんでいる人」はその3つを持っている。
確かに、その「始まりの時」を気付かぬまま通り過ぎる人もいる。その遠い記憶を忘れてしまった人もいるだろう。だけど、振り返って「あの時がそうだったか」と思い出すことがある。
ウイスキーの魅力に気付いたから愉しめるようになるのか、愉しんでいるうちにその魅力に気付くようになるのかは僕にも分からない。だけど、「感じる身体」を手に入れ、少しづつ「目論見」が持てるようになれば、どんな人もウイスキーを愉しめる。僕はそう思っている。
ウイスキーを愉しむのに必要なことがその3つというなら、それらをどのように体験してもらえるだろうか?と僕は長い間考えて来た。
3)体験としてのウイスキー
さて、あなたは少し不思議に思うかもしれない。僕は知識の重要性について語らない。あなたがこれから「ウイスキーを始めようと思っている人」ならば、準備のために知識が必要と考えるのは間違いですらあると思っている。
もちろん、僕も知識の有用性については疑うところがない。そもそもウイスキーは興味の対象であり、知識がその理解に大きく役立っていることには異論がない。
だけど、興味と関心があれば知識は集まって来る。ウイスキーは体験であり、座学ではない。だから、あなたがもしも、知識がなければ始められないと思っているなら、僕は「そんなことはない」と言いたい訳だ。
ウイスキーを愉しむのがあなたなら、あなたはあなたの感覚を頼りにするしかない。すべての蒸留所の住所と電話番号を覚えることは、あなたにウイスキーを「美味しい」と感じさせるだろうか?
あなたが「美味しい」と感じることが大事なら、あなたがウイスキーを飲んでみるまで始まらない。つまり、「飲まなければ始まらない」。
では、既にウイスキーを愉しんでいる人たちは、その「始まりの時」に何が起こり、それをどのように迎えたのだろう。
4)概念としてのウイスキー
まず、僕らが日常会話の中で「ウイスキー」という言葉を使う場合、何か具体的なウイスキーを指してはいないことに気付いて欲しい。つまり、僕らは普段「ウイスキー」という言葉を抽象的な概念として使っている。
それは、まだウイスキーが始まっていない状態である。
例えば、「ウイスキーがお好きでしょ?」という質問は何を訊ねているのだろう。その質問文に含まれる「ウイスキー」は何を指すのだろう。実は、ウイスキーを知れば知るほど、正確にその質問に答えるのは難しい。
もしも、ウイスキーに興味があり、いくつかのウイスキーを飲んで、好きなウイスキーとそうでないウイスキーがあるなら、あなたはその質問にどう答えるだろう。
あなたは既にウイスキーが「一括りにできないもの」であることを知っている。僕らは誰だってすべてのウイスキーを百点満点と思わない。そこに濃淡があることを知っている。
「どんなウイスキーが好きですか?」という質問になら、いくつかの答えが浮かぶかもしれない。でも「ウイスキーがお好きでしょ?」という質問への正確な回答は「好きなものばかりではありません」という限定的なものにしかならない。
もちろん、質問者の意図がそんなところにないことは明らかだ。質問者はウイスキーが複数種類あることを前提としていない。そこで言う「ウイスキー」とは、その時質問者の目の前にあるものか、あるいは「ウイスキー」をひとつの概念として「ウイスキーがお好きでしょ?」と問い掛けている。
つまり、「ウイスキーがお好きでしょ?」という問い掛けは質問ではなく「お誘い」なのだ。だから、その質問は日常会話のレベルから逸脱していない。ただ、あなたがウイスキーが嫌いなら「お誘いに乗れない」という意味で、少しばかり残念なことになるだけなのだ。
僕らは「ウイスキーがお好きでしょ?」と訊くその人に、「あなたの言うウイスキーは、何か個別のウイスキーを指してのことでしょうか?あるいは、ウイスキー全体、その概念についてお尋ねなのでしょうか?」と切り返すのは無粋だと思っている。
そして、僕らの脳は都合良く優秀で、「ウイスキーがお好きでしょ?」という質問を「お誘いを受けているのだ」と脳内で変換してそれに応える。
僕らが普段言葉にして使う「ウイスキー」とは概念なのである。既にウイスキーが前提になっているなら「ウイスキー」という言葉さえ使わなくなる。
同じ様に「犬」というのも概念である。僕らが日常会話の中で「犬」と言う場合、それは個々の犬を指さない。「尻尾を持つ4本足のワンと鳴く哺乳類」というのが犬の概念であるなら、ポチもハチも犬という集合にまとめられてしまうのである。
だけど、本来ポチとハチはそれぞれ個別の犬である。ポチとハチにはそれぞれ個別の特徴と意味が存在する。ただ、ポチとハチがともに柴犬という同じ犬種であったなら、他人である僕らにはその判別が難しいかもしれない。
しかし、ポチとハチの飼主にとってその判別は容易であり、そのふたつの犬の差は重大だ。ポチの飼い主は自分の犬とハチを取り違えることがない。同じ犬でも他人である僕らと飼主とではその意味の濃密さが違うのである。そして、実はウイスキーも同じことなのだということに気付いて欲しい。
概念とは物事の総括的な意味のことである。そこに含まれる物事から共通項や類似点を拾い上げ、個別のモノから離陸しその抽象度を上げる作業であり、結果としてポチとハチからその個別の意味を引き剥がし、「ともに犬である」とその概念に総括されその特徴を薄くしてしまう。
とは言え、あなたが犬を飼いたいと思う時、犬の犬種に詳しい必要はない。例えば、シェットランド・シープドッグの愛称がシェルティであることを知らずに、それを飼い始めることに問題はない。あるいは、拾った雑種の小犬にポチと名前を付けて可愛がることに幸福を感じるなら、それは意義のある時間だろう。
ウイスキーも同じことなのだ。
だけど、あなたがポチの飼主なら、あなたにとってのポチは、犬ではあるが概念ではない。あなたのポチを「ただの犬」扱いされたら、あなたは不愉快な気分になるかもしれない。あなたのポチには意味がある。僕にはただの犬かもしれないが。
話をウイスキーに戻そう。
あなたが僕の店にやって来て、あなたの目の前に一杯のウイスキーを出したとする。銘柄は何でも構わない。でもそれは、今あなたの目の前にある個別のウイスキーだ。
目の前に実体として存在する一杯のウイスキーは「概念」でないことは明らかだ。しかし、それは世界にたくさん存在するウイスキーのひとつであっても「ウイスキー代表」として現れた訳ではない。世界にたくさんあるウイスキーのうちのほんの一部だ。
もしも、それより以前、あなたがウイスキーを愉しんだことがないなら、あなたにとって、それまでのウイスキーは概念でしかなかったはずだ。ところが今、あなたの目の前には個別のウイスキーが出て来た。そう、あなたはその一杯から何かの意味を感じ取る可能性がある。
初めてウイスキーを愉しもうとするあなたが、そこからその個性と意味を感じ取って他人に説明するのは難しくても、そこから何かを感じることは十分に可能だ。それこそが概念ではなく「個別の特徴と意味を持った」ウイスキーなのである。
例えば、あなたを「犬を飼いたいと思っている人」と想定しよう。何を飼うのかは決めていない。幸運なことに友人の飼い犬が産んだ子犬を譲り受けることになるかもしれない。でも、向学のため近くのペットショップに子犬を見学しに行こうと思ったとしよう。
それまでのあなたにとって、犬は概念でしかなかった。犬は犬。あなたは漠然と「犬」を飼いたいとしか思っていなかった。どんな犬を飼いたいかさえ決まってないし、そもそも、どれほどの種類の「犬」が存在するのかさえ知らなかった。
そんなあなたがペットショップを訪れ、ショウ・ウィンドウに犬種別に並ぶ可愛い子犬を見たら何が起こるだろう?あなたは「なるほど」と思うことだろう。その違いを「説明」することはできなくとも、それぞれの犬の違いを「感じる」ことはできるはずだ。
そう、すべての犬をひと括りにはできない。
不思議なことにいくつかの犬を見比べたら「そこに好き嫌いがあること」に驚くかもしれない。そして、注意深くその中から自分好みの犬を探し始めるかもしれない。犬ならば何でも良い訳ではないということに気付くはずだ。犬にはそれぞれ違いがあり、個性があり意味がある。
それは、ペットショップを訪れ、複数の犬を見比べなければ感じられなかったこと。
5)概念から体験へ
ウイスキーも同じことなのだ。実際に触れてみて、体験しないと分からない。それまで概念でしかなかったウイスキーが概念でなくなる時。いきいきとリアルに、具体的な何かとして感じられるようになった時。その瞬間を僕は「始まりの時」と呼んでいる。
多くの人はウイスキーにもいくつかの種類があり、市場に流通する商品の数が豊富であるという程度のことはご存知だ。ただ、ウイスキーが概念でしかないなら、個別の商品が個別に存在することに意味を感じない。
意味がないことは、存在しないことと同義だ。でも、それまで概念でしかなかったウイスキーが、それぞれ具体的に色付いて意味を持ち始める瞬間、それが「始まりの時」なのである。
ただ、その意味の飽和はあなたをちょっとした混乱に陥らせるかもしれない。
6)ウイスキーを飲む目的
ウイスキーの愉しみの中で一番の悦びは、あなたが「美味しい」と感じられるウイスキーに出会うこと。それは、最適なパートナー探しに似ていて、他の誰かの恋人があなたに最適かどうかは分からない。
「美人コンテストで優勝するような美人に、すべての男が恋をする訳ではない」ということでもある。あなたはやがて、その美しさを評価するウイスキーと、あなたが恋をするウイスキーは同じものではないことに気付くことだろう。
世界は出会いのチャンスに溢れている。人もウイスキーも変わらない。でも、あなたが街に出ない限り何かが始まることはない。ただ、あなたがウイスキーを口に含み、あなたが感じ、あなたの好き嫌いを判断するために、あなたに「感じる身体」を手に入れて欲しいと僕は思っている。
あなたが美味しいと感じるウイスキーは、属性とその諸元データと条件だけで決まる訳ではない。人もウイスキーも変わらない。実際に会ってみて、あなたの感覚で相手を判断するしかない。
僕は入口まで案内できても、そのドアを開けるのはあなただ。
7)あなたの中で起こる
聴くに値する他人の話というものはある。だけど「自分が美味しいと感じるウイスキー」とは何だろう?その答えはあなたの中にしかない。ヒントは与えてくれるだろうが、あなたの個人的な答えはウイスキーの専門家や評論家の中にさえない。
さて、あなたは自分のことをどのくらい知っているだろう?
自分がどんなウイスキーを好きで、あるいはどんなウイスキーが嫌いなのか?そして、あなたの周りの人とあなたの「好き」「嫌い」にどのように違いがあるか?あなたは考えたことがあるだろうか。
最適なパートナー探しというのは、最高のカップリングということ。あなたが何を「よし」とするのか分からないなら、相手のことばかりでなく、あなたはあなた自身をも知る必要がある。
自分を知り、相手に関心を寄せる。そして、出会いを繰り返す。違う人に出会えば、同じように感じることはない。人もウイスキーもそれぞれに個性がある。
ウイスキーは外部からの強い刺激としてやって来る。その刺激をあなたの感性が心地良いと判断した時、あなたはそのウイスキーを美味しいと感じ好ましく思う。すべてはあなたの中で起こっている。その人の中でしか起こり得ないということを、実はたくさんの人が知らないままだ。
相手の刺激から自分がどんな感覚になるか?それを確かめることを大切にして欲しい。そこから何かを感じられるようになること。そして、あなたがその好き嫌いを判断できるようになること。それが、僕の言う「感じる身体」なのである。
8)ウイスキーは怒らない
「初めて出会った人と生涯添い遂げる」という生き方を僕は否定しない。確かに、その生き方にはある種の潔さと美しさがあり、僕自身それに憧れがあるとさえ言っても良いだろう。
僕は人とウイスキーに類似性を思うことが多いけれど、当然のことながら、人とウイスキーは同じではない。いくつかの違いがあるうち、一番ありがたいと思うのは「ウイスキーは怒らない」ということである。
もしもあなたの目の前に、ただ一種類のウイスキーしかないとするなら、それを他との関係において相対的に考えることはできない。それは世界で唯一のウイスキーであり、つまり概念と同じものになるからだ。
「ウイスキーと言ったら○○」「他の銘柄に興味はない」。
ややもすると、人はそうなってしまいがちだ。その人たちに話を聴けば「それで十分事足りている」ということなのだろう。
もちろん、それは不幸なことではない。でもそれは、他を知らないことによって成り立つ幸福だ。僕が言いたいのは「それより以上の愉しいことがあるかもしれません」ということで、繰り返すが都合の良いことに、他のものに手を出して浮気をしても「ウイスキーは怒らない」のだ。
9)比べてみる
あなたの目の前に2種類以上のウイスキーがあるなら、あなたはそれらを試してみることが可能だ。そして(それは僕にとって何より明らかなことなのだけれど)、人はふたつのウイスキーを飲み比べた時、その違い、その差分を必ず感じてしまう。
人がふたつのウイスキーの相違に気付くのは比較対象があるから。そこに知識はいらない。紅茶と緑茶に違いを感じるように、人はその香りと味わいの違いを差分として感じる。その際、それらの茶葉に対する詳細な知識は必要だろうか?
紅茶と緑茶について詳細に語れなくとも、あなたの身体はその違いを感じることができる。
ウイスキーの魅力のひとつはその多様性だ。僕の店は主にシングル・モルト・ウイスキーを扱う店だけれど、そのカテゴリーだけでも日々新しい商品が市場に現れる。ただ、その種類が膨大であることを、実に多くの人は知ることがない。
ウイスキーの愉しみを担保するのもまた多様性である。僕らがそのすべてを飲むことが不可能なほどに、世界は未知のウイスキーに溢れている。しかし、それらのすべてに、僕らは香りと味わいの差を感じることができる。ウイスキーの多様性に立ち向かうのが、あなたの「感じる身体」なのである。
あなたに「感じる身体」があるなら、あなたはウイスキーを判断することができる。ウイスキー鑑定家でないあなたは、ウイスキーの良し悪しを評価する必要はない。自分の好き嫌いだけを判断すれば良い。
ウイスキーを飲むことは試験ではない。だから、あなたの試験結果が採点され合格・不合格を判定されることはない。ただ、試験ではない代わりに実験だと思って欲しい。それは、あなたが「自分の好き嫌いを知ること」を目的とした実験なのだ。
ふたつのウイスキーを飲み比べれば、誰でもがその違いを感じることができるのは先ほどお話した通り。疑わしいと思うなら、自分で試してみれば良い。
あなたが美味しいと思うウイスキー、つまり、「最適なパートナー探し」を目的とするなら、ひとつやふたつで判断を下すのは早計に過ぎる。そして恐らく、あなたはまだまだ自分の好き嫌いを知らないはずで、もっと素晴らしいウイスキーはどこかに隠れている。
10)成長する
あなたの好き嫌いは時間とともに変化をするはずだ。大人になると子供の頃に嫌いだった食べ物が食べられるように。好ましくない噂のある人物に、実際に会ってみたら好きになってしまうことがあるように。
あなたが「感じる身体」に素直でいる限り、ウイスキーはあなたを愉しませてくれる。あなたの身体は世界に様々なウイスキーがあることを知るだろう。そして、ウイスキーから感じられることを思うたび、あなたはあなた自身を知るようになる。
ウイスキーが教えてくれる自分というものがある。僕らがウイスキーから個別の個性を感じられるのは、ウイスキーに多様性があるから。そして、僕らの好き嫌いが人によって必ずしも一致しないのは、僕らの好き嫌いにも多様性があるから。
あなたの好き嫌いが他の多くの人と一致しないことを不安に思う必要はない。意見の食い違いがありそうだからと言って、他人におもねる必要もない。今日嫌いだったものが、明日は好きになることがある。
「あなたも同じように感じているの?」。
僕らはそのことが永遠に不安なままだ。
それは、官能に関わる諸問題であり、数値化することは難しい。あなたの好き嫌いは変遷し、状態により日々ブレるのである。だから、自らの「感じる身体」を信じるという立場からブレなければ良いのである。
あなたのパートナーはあなたにしか決められない。恐らく僕は、あなたよりあなたの好き嫌いに詳しいと思うけれど、それでも僕にできるのは紹介でしかない。好き嫌いを決めるのはあなたであり、その答えはあなたの中にある。
「感じる身体」は日々成長する。トレーニングを続ける必要はあるが、トレーニングとは飲むことである。他人からすれば、それは、あなたがただ「好きなウイスキーを飲んでいる」だけにしか見えない。だから、トレーニングが厳しいものでないことは明らかだ。
様々なウイスキーを飲むことは、あなたに変化をもたらすだろう。あなたは変化を自覚し、それを成長と感じるだろう。
次第にそのウイスキーのディティールに何かを感じるようになる。人の話に聴いた何かのニュアンスをそのウイスキーから拾い、その話を理解するようになる。
あなたの「感じる身体」は樽の種類の違いを感じ、海沿いの蒸留所に共通した特徴を見つけ、いくつかの蒸留所から感じる蜂蜜やフルーツのニュアンスを似たようなものとしてとらえ、まったく違う分類だと教えられた蒸留所に共通項を探し出す。
11)不思議のウイスキー
ある程度のトレーニングを積んだ「感じる身体」は、ウイスキーから様々な不思議を拾い始めるだろう。ウイスキーはミステリーの宝庫で、あなたは未知のウイスキーにも不思議が探せるのではないかとワクワクし始めるかもしれない。
あなたはその不思議、そのミステリーに取り組みたいと思うようになるかもしれない。そうやって初めて知識は重要になる。そんな時に先人の知恵は心強い。
いくらかウイスキーを飲んでいると、蒸留所ごとにある種の傾向が存在することに気付かされる。さらに進めば、同じ蒸留所でも年代や樽によって個性に違いが現れることを知るようになる。それでも「ただそれだけではない」と不思議な気持ちになることもあるだろう。
不思議だと認識を持てば、意味を探り解釈をしたくなるものだろう。それが、人間の高度な遊びなのか、あるいは、性のようなものなのかは僕には分からない。
謎というのは、それそのものが魅力的な輝きを放っている。例えば、それはパズルのようで、僕らは何を目的にパズルを解くのだろう?それは、解くこと自体が目的なのだ。解いても何かが手に入る訳でもないパズルに僕らは夢中になる。
「ミステリーの虜」になってしまった人が、その不思議を追い掛け知識と情報を集める気持ちは理解に難しくない。集めたそれらのひとつひとつはパズルのピースで、ピースを並べて全体像を手に入れようとしている。
かつては僕も「ミステリーの虜」になった経験がある。空白のピースを埋めた時、そこにはちょっとした興奮と喜びがある。もちろん、今でもウイスキーの不思議やミステリーは魅力的な輝きに満ちているけれど、そのパズルは完成することがないのだと思うようになった。
12)真実のウイスキー
ミステリーの虜になった僕らは「真実を知りたい」と思うかもしれない。真実を知るために「全体像を掴みたい」と願うかもしれない。全体像を知るために、世界中に散在する「情報を集めなければ」と思い悩むかもしれない。
さて、もしもあなたが少しばかりウイスキーに興味があり、その情報を追い掛けたことがあるなら、日々夥しい数のウイスキーが市場に現れていることはご存知のことだと思う。それに伴い、それらのウイスキーに相当する情報も日々更新される。SNSが普及した現代ならなおさらのこと。
確かに「全体」はあるのだ。ただ、それは常に流動的で確定することがない。
例えば、それは「街と地図」のような関係だ。街は変化する。いくつかの建物が壊され、更地になったその場所に新しく大きなビルが建つ。街と街をつなぐ道路が造られ、道路に沿って建物が現れる。
街が実態であり、地図はそれを追い掛けて更新される。でも、どれだけ更新の頻度をあげても、常に最新なのは「街そのもの」なのである。世界に終わりの日が来るまで、地図が確定することはない。
もしも、その日に地図の製作者が生き残っていたらという話ではあるけれど。
僕らの肝臓とお財布にもキャパシティがあることは、あなたもご存知のことで、僕らはそれを超えてウイスキーを飲むことができない。
僕らは「この時代のその部分」にしか触れることができない。ただ、そこから全体をイメージすることは不可能ではない。もちろん、それはイメージであって確定した全体ではない。それが現実で、僕はそのことを大切に思うけれど、残念には思わない。
ウイスキーを愉しむとは、散歩のようなものではないだろうか。街を歩く自分をイメージして欲しい。あなたは散歩するのが愉しいから街を歩くのではないだろうか?地図を作ることを目的に街を歩いている訳ではないはずだ。
確かに、地図があれば散歩に便利なのはご承知の通り。だけど、道を知ることと実際に歩むことは同じではない。そして、目的が散歩なら、実は「効率の悪さ」さえ散歩の愉しみであることもご理解頂きたいと思う。散歩に出るまで、散歩の愉しみは分からない。
それらのすべてはあなたが「感じる身体」を手に入れてからの話である。それらは、あなたの「感じる身体」によって、あなたへともたらされるものだから。
心配はいらない。まずはあなたにも「感じる身体」があることを知って欲しい。それは、とても簡単に試すことが可能だ。そして、たくさんのウイスキーを飲むことによって「感じる身体」を成長させて欲しい。成長を遂げた「感じる身体」は、どんな時もあなたの拠り所となるだろう。
では、どのように試したら良いのだろう?
13)始めてみる
もしもあなたが、ウイスキーを愉しんでみたいと思い池袋のジェイズ・バーに来たなら、そして、「何から始めたら良いのか?」分からないなら、「3杯セット」とオーダーをしてみて欲しい。
時期により変化はあるが、対象商品は150種類くらいあるだろう。ほとんどがシングル・カスクのウイスキーで、売切れても同じものが手に入らない。だから、対象商品は時代とともに入れ替わり更新されて行く。
基本的にはバックバー下段のシングル・モルト・ウイスキーは、すべて「3杯セット」の対象商品だ。新入荷のウイスキーはカウンターの上に並べられている。気になるものがあったら気軽に声を掛けて欲しい。
その程度には豊富な選択肢があるが、それは世の中のウイスキーのすべてではない。ごく一部と言って良いだろう。そこから何かをひとつ選んで欲しい。もちろん、「何から始めたら良いのか?」分からないあなたなら、相談をしながら決めて行きたい。
僕はいくつかの質問をするだろう。「普段どんなウイスキーを飲んでいるか?」「ウイスキーを飲むのは初めてか?」「嫌いなウイスキーはあるか?」「心の底から惚れてしまったウイスキーはあるか?」。例えばそんな質問だ。
あなたの話を聴いた僕は、その中からいくつかの候補を見つけるだろう。最初の一杯はあなたが決めても構わない。僕に任せてもらっても構わない。
ウイスキーをグラスに注いで、僕はあなたの目の前に差し出す。それは、実体を伴ったウイスキーだ。まず、香りを嗅いでみて欲しい。何らかの匂いがするなら、それは概念ではない。頭で考えていたウイスキーではない。
そのすべてをウイスキーという概念でひと括りにすることは可能だが、選ばれたウイスキーはあなたにとっては特別で個別の具体的な一杯だ。そして、あなたはそれを感じることができる。
そうやってあなたは「始まりの時」を迎える。
自分に「感じる身体」があるかどうか試してみたいなら、比べてみれば良い。気軽に2杯目を注文して欲しい。何を選ぶかは実は大きな問題ではない。気まぐれで構わない。それが何であっても、1杯目のウイスキーとの違いはあなたにも明らかだ。
あなたはその差分を感じるはずだ。そのふたつが同じものではないことを感じるはずだ。それは、誰にでも分かること。それは、あなたが感じてしまうことであって、あなたの知識によるものではない。そういう意味において「感じる身体」があるなら、知識は必要ない。
あなたがその違いを感じてしまったなら、それはあなたに「感じる身体」がある証拠だ。どんな時も「感じる身体」は、あなたがウイスキーを愉しむ根拠である。
さて、あなたは1杯目でウイスキーが概念でないことを知ったはずだ。つまり、あなたは「始まりの時」を迎えた。2杯目でふたつのウイスキーに違いがあることを感じたら、おぼろげながらも自分に「感じる身体」があることを実感しただろう。
さて、あなたには3杯目のウイスキーが残っている。
14)その先のウイスキー
1杯目と2杯目のウイスキーを飲み終えたあなたは、今、何を思っているだろう。1杯目と2杯目のウイスキーの違いを感じたあなたには、そのふたつのウイスキーに明確な好き嫌いを持っているかもしれない。
例えばあなたは「好きな方に近いヤツを3杯目に」と言うかもしれないし、「1杯目でもなく2杯目でもなく、まだ飲んだことのないようなタイプを」と言うかもしれない。あるいは、あえて「嫌いだと思ったものに近いものを試したい」と言うかもしれない
簡単に言うなら、それが「目論見」の始まりである。
「始まりの時」を経験し、「感じる身体」を手に入れ、飲んだことのない次の一杯に「目論見」が持てるようになるとウイスキーは愉しくなる。ただ、ウイスキーが概念ではなくなったあなたは、その混沌に戸惑うことにもなるだろう。
ウイスキーに興味を持ち始めたあなたは、その種類の多さを不安に思うかもしれない。メーカーとしての蒸留所があり、瓶詰を専業とするボトラーズ各社があり、ヴィンテージ違いがあり、熟成年数・樽番号・樽の種類にも違いがある。
さて、何を選んだら良いのだろう?
何かを選ぼうと思った時、目の前に豊富な選択肢が存在することは、実は僕らを幸福にするばかりではない。それ故に、困惑させられることがある。けれどもその状態は、あなたのウイスキーが概念ではなくなった証しでもある。
つまりこういうことだ。
「すべての男は妻が妊娠して初めて、街に妊婦が歩いていることに気付く」
何も知らなければ、世の中にたくさんのウイスキーがあることに気付くこともなかった。
ウイスキーの愉しみは何よりまず、目の前の一杯を愉しむこと。知識は二の次で構わない。もちろん、より深く理解したいと望むことは素敵なことだが、理解はウイスキーを愉しむための必要条件ではない。
理解しなければ愉しむことができないと思っているなら愚かなことだ。当たり前だが、至福の時はそれを「美味しい」と思えた時なのである。また、理解を欲したとしても、飲まなければ始まらない。飲みながら理解して行くのもウイスキーである。
15)冒険としてのウイスキー
だから、こう考えてみて欲しい。ウイスキーを愉しむというのはちょっとした冒険の旅なのだ。その冒険は森の中からあなたが宝物を探すことを目的としている。あなたの宝物はあなたが「美味しい」と感じる一杯、あなたの最適なパートナーなのである。
だけどあなたも、闇雲に冒険がしたのではなかっただろう。リスクを低く効率良く宝物が探せないかと考えていた。だからこそ、飲む前に知識が欲しいと考え、関連情報に目を通し、そして、結果として困惑し、ウイスキーに深い闇を見ているなら、それは永遠に循環論である。
あなたが迷子にならないように、あなたを助けるのが「感じる身体」と「目論見」なのだ。「感じる身体」はあなたに「好き」「嫌い」というフィードバックをもたらす。「好き」と感じたものをピックアップしてみたら良い。そこには何か共通の傾向が表れるはずだ。
「嫌い」なものも同様だ。恐らくそれは、あなたが今、飲むべきものではないかもしれない。「飲みたい」という期待。「飲むべきではない」という判断。それが、あなたに生まれた「目論見」なのである。
インポーターの商品案内を読んで、ウイスキー・ブロガーのテイスティング・コメントを読んで、そのウイスキーのイメージが生まれるなら、それも「目論見」なのである。ウイスキー全体を地図のようにイメージして「未開拓な領域がある」と思えたなら、それも「目論見」である。
「感じる身体」はあなたにフィードバックをもたらす。その繰り返し、積み重ねはあなたに「目論見」を持たせるだろう。「知らないから入って行けない」のではなく、「知りたいから入って行く」のではないだろうか。
初めて出会うウイスキーにワクワクして欲しい。知らない人に会う必要はないと思わないで欲しい。すべては遊びなのだから。あなたにも「感じる身体」があることは僕には明らかだ。あなたの「感じる身体」が成長すれば「目論見」は有効に機能し、「知らないけど会いたい人」に思いを馳せるようになる。
思いを馳せたウイスキーに会うたびに、あなたの世界は広がるだろう。世界の広さを知り、また細部にも詳しくなるだろう。知るたびに「感じる身体」は成長し、「目論見」はより強化されるだろう。街のバーに行けば、カウンターの隣に志を同じくした冒険者に出会い、話も弾むはずだ。
その時のあなたは「ウイスキー」という言葉を使わなくなっている。
そして、「最適なパートナー探し」という意味において志を同じくした冒険者であっても、あなたとは別の宝物を探していることに気付くだろう。ただ冒険者同士の情報交換は有益で、あなたの「目論見」はより正確になるだろう。
僕らは皆、ウイスキーの森の冒険者なのだ。ひとつの蒸留所を一本の木だと考えれば良い。森は木が集まって成り立っているが、それらは地域区分という林に区切ることが可能だ。
枯れる木があり、新しく生まれる木があり。森はそれ自体、ひとつの生態系のようだ。冬が終われば、春になり。夏を過ぎて秋になれば、葉は色付いてやがて落ちる。一本の木に茂る一枚の葉は、蒸留所の熟成庫に眠る一樽のウイスキーのようだ。
同じ木のそれぞれの葉は、とても似ていて、でもどこかに違いがある。その違いは、見比べる人には明らかだ。森は多様性の宝庫で、そのことは僕らの愉しみを永遠に担保してくれるだろう。
木を見て森を見ない。あるいは、森ばかり気にして木が見えない。
どちらも愚かな態度だ。
森は生きている。森そのものが生きている。だから、行くたび違う表情を見せてくれる。だから、愉しみは尽きない。世界が昨日と変わらず同じであることは、安心なことだろうか。僕には退屈なことのように思うけれど。
何かを知っていることは一番大切なことではない。
あなたの知っていることより、僕はあなたが感じたことを知りたい。
16)真実ではなく、認識と解釈
知識を使ってウイスキー全体を切り分けて分類することは、あなたのウイスキーに対する理解を深めるのに大いに役立つだろう。ただ、僕らは博物学を目的にウイスキーを飲むのではない。
収集と分類は間違いなく理解の一助となるだろう。しかし、それは僕らがウイスキーを理解するための手段であり目的ではない。僕らの冒険の目的は美味しいウイスキーに巡り会うことである。分類が理解の一助となっても、分解はその愉しみと意味をバラバラにすることがある。
ウイスキーに真理や真実はあるのだろうか?
僕には良く分からない。だけど、ウイスキーが僕に教えてくれたのは「すべては認識と解釈なのだ」ということ。
ウイスキーには多様性があり、飲み手の嗜好にも多様性がある。飲み手ごとに認識と解釈が異なるなら、そのうちのどれかひとつが真実となるのではないだろう。
あなたが愉しむことを目的にウイスキーをのむのなら、真理や真実を追求するのは後回しで構わない。
あなたの冒険の旅が「始まりの時」を迎えるように、僕は「3杯セット」という仕組みを用意した。それはあなたの「感じる身体」を成長させ、その繰り返しはあなたの「目論見」をより正確なものにするだろう。
「感じる身体」とはコンパスのようなもので、「目論見」とはあなたが作る地図のようなものだ。それらはあなたの冒険をより快適に効率良くするだろう。僕は森の小屋を住処としていて、あなたが時々訪ねてくれたら嬉しく思う。
あなたのウイスキーが愉しくなることを願ってやまない。
17)あとがきにかえて
あなたの貴重な時間をいただいて、僕のこの文章を最後まで読んでくれたことに感謝をしたい。
そして、随分と長い文章になってしまったことをお詫びしておきたい。
具体的なあなたの不安は「バーでウイスキーを注文したいと思っても、何を頼んで良いのか分からない」ということだったかもしれない。
そんな時は、僕の話を思い出してくれたら良い。
ここまで僕の文章を読んでいただいたあなたならご理解いただけると思う。もしもあなたが、ウイスキーを愉しめる人になったなら、「知らないウイスキーばかり」な状況にむしろテンションが上がるはずだろうということなのだ。
既知のウイスキーばかりを注文することは、あなたの体験を愉しくするだろうか?未知のウイスキーとの出会いは、あなたを覚醒させる可能性がある。
特に難しいことではない。そうやってウイスキーを愉しむイメージが掴めたら、あなたは今までより少し勇気を持って、臆することなくバーの扉を開けることができるだろう。
その店であなたが美味しいと思うウイスキーを求めるなら、あなたの目の前にいるバーテンダーに話し掛ければ良い。その店のウイスキーに一番詳しいのはその人なのだから。
バーテンダーはあなたの話から、あなたの「目論見」を理解するだろう。そして、あなたはきっとバーテンダーとの会話そのものを愉しむようになるだろう。
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