コロナ禍で考える、4月1日からの営業について

結論から申し上げます。

池袋ジェイズ・バーは4月1日より東京都の時短要請には「従わずに」通常の営業時間に戻して参ります。少しづつ慎重に、ウイスキーを求める飲み手に合わせて営業時間を後ろに伸ばします。

3月21日をもって緊急事態宣言が解除されました。しかし、3月22日以降も東京都から飲食店に向けた営業時間短縮要請は続いています。

東京都は3月21日までを「緊急事態措置期間」、3月22日から3月31日までを「段階的緩和期間」として2つの期間合わせ全面的な営業時間短縮に協力することを要請してい来ました。

僕らが東京都の要請に従うのは、本日令和3年3月31日までとなります。

もちろん、再び「緊急事態宣言」がなされたり「まん延防止等重点措置」が講じられるような事態になれば、しっかりと従います。


今のところ決まっているのは二つのことだけです。
①営業開始時間を13時とする。
②これまで以上の感染拡大防止策を実施する。

何時に閉店するか?は決まっておりません。早ければ22時まで、遅い場合でも終電で帰れるような時間まで、になると思います。

今までのように営業時間を固定して、「満席でない限りすべてのお客様を受け入れる」という方針ではなくなります。日々の取り決め・入店制限など変更があればTwitterで発信していきます。

②に関しては「滞在時に守っていただくルール」を設けます。内容に関しては来店時にご説明させて頂きます。

以上になります。

様々なご不便をお掛けすることと存じますが、何より僕らの社会自体が不安定で流動的な状況です。ご容赦ください。

よろしくお願い申し上げます。

池袋 ジェイズ・バー
店主 蓮村 元




以下少々長くなりますが、今回このような決断を下した経緯について、僕なりに説明をさせて頂きたく文章にいたしました。

*ご興味ご関心のある方のみお読み下さい。

僕の中には「飲食店は暮らしを支えるインフラである」という思いがあります。個食・黙食が常態化しているラーメン屋さんや牛丼屋さんも、にこやかに歓談できるレストランも、接待を伴う飲食店も、僕らのようなバー業態も。そしてもちろん、今般何かと悪者扱いされるカラオケ店だって。

それらプレイヤーが自由に競争をして、適者生存・自然淘汰の結果を受け入れて来たのが僕らのこれまでの日常でした。それは結果として、豊かな多様性を持つ飲食店文化として、現代に結実しています。

生き残った者がその文化を受け継ぎ、ある者はその伝統をそのまま次世代に引き渡し、ある者は変革者となり、また、ある者は日本にない新しい文化を生み出してきました。

これまでも様々に危機はあったことでしょう。しかし、それらのすべてを飲み込み、乗り越え、現代の多種多様な食文化につながっている訳です。大切なのは自由な競争だったのだと僕は考えます。

しかし、僕らは今、自由に商売をする権利を奪われている状態です。


現在が「平時ではない」という認識は僕にもあります。先の読めない厳しい戦いは1年以上続いていて、経営者として「戦時対応を迫られている」と感じ覚悟を決めたのは昨年の2月のことです。

報道によれば1都3県は足並みを揃えて、営業時間短縮要請を4月以降も続けて行く方針のようです。3月18日には飲食店各店舗に「コロナ対策リーダー」なる者の設置を求め、僕らにまた新たな負担をかけ、従わない者には罰を与えるようです。

素直な疑問です。
僕らはいつまで自粛に耐えなければならないのでしょうか?

感染者数という名目のPCR検査陽性者数の増減だけを追いかけて、科学的な根拠と予測される効果について説明がされず、さらに言うなら、これまでのその結果についても検証されないような対策を施しても、埒があかないのではないかと僕には思えます。

令和3年3月まで「何とか生き残った」とは感じています。戦時対応の中、これまでの変化に上手く対応してきたと冷静に自分を評価しています。しかし、今の僕には安心も楽観もありません。

「現状維持を狙えば衰退する」

平時においても僕は常にそういう危機意識を持ち生きています。多くの場合、どんな人にも現状維持バイアスというものがあるでしょう。確かに、僕の中にも「できれば変わりたくない」という気持ちがないとは言えません。

ただ、世の中は常にゆっくりと、そして、時に大きく変化します。今まさに、大きな変化が訪れていることは誰もが感じているはずです。

戦時を乗り越えれば、やがて平時がやってくるでしょう。
でもそれは、例えば2年前と同じ日常ではないはずです。

2年で50%、3年で70%が廃業すると言われる飲食業界です。自分が「勝ち上った適者」であるかどうかについては甚だ自信がありませんが、淘汰の波に押し流されず「生き残った」という自負ならあります。

もうすぐ27周年を迎える池袋ジェイズ・バーです。長きに渡り店を続けて来られたのは、もちろん、お客様に支えられたからです。どんなに感謝を重ねても足りることがないほどに。それは、僕の中で圧倒的にリアルです。

ただ、僕の側から一言だけ付け加えさせていただくなら、お客様に支えていただけるよう「変化に対応して来た」結果でもあるのです。

「できれば変わりたくない」「なぜ世界は変わってしまうのか?」と嘆くばかりなら変化に対応できなかったでしょう。


僕は今、この戦時の中、多くのものが失われ始めているように感じます。

池袋もたくさんの飲食店が廃業しました。タピオカ屋さんから老舗の名店まで。駅前一等地で37年続いた牛丼屋さんも閉店して3ヶ月経ちますが、未だに誰もその場所で商売を始めようとしていないようです。

今年8月には西口のマルイが、9月には東口の東急ハンズがそれぞれ閉店するそうです。「マルイの交差点」「ハンズの前」。僕らにはどちらもランドマークとなる、待ち合わせスポットでした。

30年以上、池袋で暮らす僕には信じられない光景です。


感染症対策を優先することで、蔑ろにされて来た弱者がいます。僕は1年前から「感染症だけでなく、経済でも人は死んで行く」と訴えてきましたが、残念なことに当時、僕の声は多くの人には響かなかったようです。

いや、それは「今でも」かもしれません。

だけど、1年経ってどうでしょう。経済的困窮は様々な形で人々を蝕んでいきます。企業の倒産、失職者の増加、自殺者の増加、治安の悪化、学校や職場でのいじめ、家庭内でのDVやネグレクト、孤独死のニュースなどに触れるたび心を痛めます。

このままなら、多くの人が笑顔を取り戻せないまま精神的に参ってしまうでしょう。

もちろん、感染して重い症状に苦しんだり、家族を失い辛い思いをなさった方々にとって、この感染症が恐ろしいものであることを僕は否定できません。

ただ、このまま科学的根拠に基づかない(と思われる)感染症対策を続ければ、経済的困窮は将来に深い傷跡を残すことになるでしょう。

感染による死亡者も自殺者も、その命の重さに代わりはありません。どちらも亡くならなければ、これからの「未来を担う人」であったのです。

僕のところには仕事柄、たくさんの普通の人の話が届きます。多くは語れませんが、1年前から聴こえるのは、お客様の知人、友人、ご家族の心を痛めるようなエピソードです。

簡単にまとめるのも心苦しい思いですが、ひと言で申し上げるなら、それは「心が折れてしまった人々」の「それぞれの物語」です。

今はまだ、僕らの社会にとっては感染症の拡大が大きな関心事であることもまた当然と思います。ただ、蔑ろにされた弱者たちの声は報道されないが故に、多くの人に届いていないと感じています。

感染者数という名目のPCR検査陽性者数のニュースに僕らが飽きた頃、それら弱者たちの実態が明らかにされるかもしれません。

そしてまた、マスコミは「新たに浮き彫りになった不幸」に飛び付き、切り取り、僕らを不安にさせるよう報道することでしょう。

でも、その「新しい不幸」は、僕にとって「今ここにあるもの」なのです。マスコミが頻繁に報道するようになる頃には、取り返しのつかないほど手遅れになっていることを危惧します。

僕らがサービスを受け取るすべての社会的インフラは、先代より以前から長い時間をかけて日本人に受け継がれて来たものです。僕らの日常の豊かさと便利さはそれらに支えられているのです。

それらを様々な文化といっても良いでしょう。コロナ後の世界では、それは少しづつ形を変えて行くでしょうが、外食をする文化も例外ではありません。

経済が回らなくなれば、それらはゆっくりと壊れて行きます。先代から引き継いだものを、僕らは次世代へと残して行くことが不可能になります。

僕が恐れているのは、身体より先に心が折れてしまう人が大量に発生してしまうことです。次世代に何かを残したいと意思を持ち、願うのはその人の心だからです。


昨年4月の緊急事態宣言には無条件に従いました。当時は「ペストのように怖い」という意見から「ただの風邪」という極端な見解がありました。なので、素直に「どうしたらいいか分からない」との思いからの休業の決断でした。

重篤者が85万人、41万人が亡くなる感染症だという予測もありました。ただ結局そうはなりませんでした。現在のところ、国内の死亡者数は9,000人を超えたところです。

未だに専門家にとっても分からない部分の多い感染症なのでしょう。でも幸いなことに「41万人が亡くなる感染症」という予測は外れた訳です。また、1年以上経ち幾らかの役立つ知見も集まり始めていると感じています。

僕の理解していることなど、専門家に比べれば足元にも及ばないことは明らかですが、今回の新型コロナウイルスが地球から消えてなくなると考える科学者はいないと思います。

僕はこの感染症を「ただの風邪」とは思いません。しかし、どうやら風邪と同じように「季節性」があること。そして、風邪より以上に肺炎を伴い、時に死に至らしめる可能性のある病でもあること。そのように理解しています。

また、多くの感染症は
「短い期間に指数関数的に感染者を増やす」が、「一旦感染して治ると、少くとも当面の間は再び感染することがないし、他人に感染させることもない」。そして「ある程度広がらないと収束しない」。
その程度のことなら理解しているつもりです。

僕らは「ゼロコロナ」を目指すべきなのでしょうか?


このまま自粛を続け、人と人の接触を極力避けていけば感染者数は少なくなるのでしょう。ただ、それを続けるなら、僕らが先人から受け継ぎ、文明として築き上げて来た快適な毎日の暮らしを手放すことになるでしょう。

僕らの仕事も先人の礎の基にあるのです。そして、先人の伝統を受け継ぎ、自分なりのアイディアを織り交ぜ、次世代に引き継いて行くことが僕の仕事と考えます。

落語の世界の「時そば」は現代の駅のホームに生き残っています。元来がファストフードであったであろう「寿司」は、高級店と回転寿司に枝分かれして、令和の今も脈々と人々の毎日に彩を与えています。

就職していればこそ転職も可能ですが、職を失った人の就職が難しいように、一度廃業した飲食店が復活することは難しいでしょう。

すべての飲食店は「社会的インフラ」と考える僕からすると、すべての国民が少しづつそれを失いつつあるのが今の状態です。思い返せば、僕自身さまざまな飲食店に人生を救われて来ました。

「ロックダウン」というような形で強制的に人と人との接触を避けるような「感染拡大防止策」を取ったなら、一時的に「PCR検査陽性者」は減るでしょう。

でもそのことと引き換えに、1,000年かけて積み重ねて来た、日本人の飲食店文化は、確実に蝕まれて行くことでしょう。そしてまた、「緩めたら増える」のもコロナなのです。

確かに、僕らが受け入れる不自由さと引き換えに、「ゼロコロナ」が保証されるなら我慢のしようもあるかもしれません。しかし、多くの良心的な科学者はそれを否定しているようです。

乱暴な言い方ですが、僕にはそれらのことが「一匹のゴキブリを駆除するのに、家を一軒燃やそうとしている」ように思えてならないのです。

経済的困窮は少しづつ、でも確実に僕らの暮らしから豊かさと楽しみを奪っていくでしょう。そして、弱い人から順番に、より苦しい場所へと追い詰められていくはずです。


素朴な疑問です。
僕らはいつまで自粛に耐えられるでしょう?

春を迎え始めた3月から、特に緊急事態宣言が解除された22日以降、池袋も人々の往来が急激に増えていると感じます。

ただ、そこには昨年の春と違った様子があります。すべての人がマスクを着用し、でもその表情は1年前より明るく見えることです。少なくとも1年前のような「闇雲な不安」は薄くなっているように感じます。

言葉を選ばず言わせていただけるなら、結局のところ「人は自粛に耐えられない」のではないでしょうか?自粛に耐えられない人達が「自粛をせずに済む理由」を探し始めているようにも思います。

そのような言い方を不愉快に思う方もいらっしゃるかと思います。でも、ひと言補足するなら、それは「僕にはそのように思える」という意味での「事実に対する論評」です。

つい先日、「厚労省官僚「銀座で0時頃まで23人宴会」の唖然」という記事が世間を賑わせました。ことの是非はともかく(もちろん、自粛を求める政府の役人が「この有様か?」という思いは僕にもあります)、人は誰でも「仲間」と認識する他者とリアルに触れ合いたくなってしまう生き物なのだと思います。

彼らに「ことの善悪」が理解できなかったはずはないでしょう。そして、彼らの深夜に及ぶ「マスクを外しての会食」が、世間の目に晒されたら「どのようになるか?」という危機意識がゼロだった訳でもないでしょう。

それでも開放的な気分でストレスを発散したくなるのが人間なのでしょう。それは、自粛を促す立場の官僚も同じこと。

素直に言わせていただくなら、僕は彼らに少し同情的です。自分の意にそぐわないことも、粛々と進めて行くのが役人の仕事なのでしょうから。

今、世の中は、ストレスフルな状態です。


家に引きこもり精神的に追い詰められ衰弱するよりは、リスクを取って街に出て笑顔を取り戻した方が、よほど健康的。という意見があるなら、皆さんはどう思われるでしょう?

いづれにしても、強制的なロックダウンでもない限り、人は街に出てしまうのだろうと僕は予測しています。

どうやら緊急事態宣言というのは「国民に外出をさせない効力を持つ」ものではなく、僕ら「飲食店経営者を取り締まるため」に使われていることは明らかなようです。

経営者として「経済を回して行くこと」と「感染拡大防止に努めること」。僕は今、そのどちらもを考えながら判断に迫られる局面を迎えています。

実は、大きなパラドックスを抱えているとは思いません。そもそも「何かを諦めたら、欲しいものが手に入る」という発想は僕にはありません。

僕は「何かを諦めること」と「欲しいものが手に入ること」に因果関係はないと考えるからです。

しかし、僕は人の流れを止める力を持ちません。そう自覚する僕が「自粛に耐えられない人達が街に出てくるだろう」と予測しています。そして、そのこと自体を仕方のないことと受け止めます。

自分に変えられないことは、受け入れるしかないからです。それが僕の徹底したリアリズムです。僕が望む、望まないに関わらず、恐らく人は自粛に耐えられず外出するのでしょう。

なので、人々が気晴らしのために外出をしてしまうことを前提に考えないと、自分の未来を正確に捉えることはできません。その変数に、自分の未来が変わってしまう可能性があるのです。

それは「良し悪し」「善悪」の問題ではありません。

外に出て笑顔を取り戻す人がいることは事実ですし、個人的には「良い側面もある」と判断すべきだと考えます。確かに、外出が増えれば感染症で苦しむ人は増えるでしょう。でも、健康な人が鬱病になるリスクは下がるでしょう。

ならば、ジェイズ・バーに来店するお客様の中に、感染している方が増えてしまうリスクにどう立ち向かうかが僕の仕事です。それは「どんな営業時間にも関わらず」ということです。

「夜8時以降にお酒を飲んだらウイルスが活発に活動する」などという話は聞いたことがありませんし、「ノーガード、フルコンタクトで営業する感染リスクの高い店」が「夜9時で閉店すればOK」というなら、それも理不尽な気がします。

もちろん、感染してしまうこと自体は不幸な話ですが、その方の責任を問うつもりはありません。しかし、そのリスク(不確実性)は、現在を生きるすべての人が抱えているものではないでしょうか?


とは言え、感染している方が店に来店するなら、お客様やスタッフが感染するリスクも高まるということになります。

これからは「そのリスクを排除すること」あるいは「いかに低下させるか」を考えることが僕の仕事の多くの部分を占めることになるかもしれません。

リスクとは「危険」ではなく「不確実性」です。感染症に限らず、人生にゼロリスクはあり得ない。というのが僕の立場です。しかし、いくつかの方策でその不確実性を下げることは可能と思います。

本心で言わせて頂きますが、いつの日か外食に「リスクが伴うことを理解したお客様しか街に出歩けなくなる時代」が来るのかもしれません。そうであるなら、僕らには本当に厳しい時代がやってくるでしょう。

そのリスクを下げるために、お客様にはご不便・不自由をお掛けしますが、何卒ご協力いただけるようお願い申し上げます。

池袋ジェイズ・バーは、お客様にもコロナのリスクを低下させるための協力を必要としています。

冒頭に申し上げましたが、皆様に「どのようなご協力をお願いするか?」という点につきましては、来店時にご説明いたします。

これまでだって外出することも、人と会話をすることも、飲食を共にすることにもリスクがあったはずなのです。ただそれは「これまで意識されなかったリスク」でした。そのことが顕在化したのがコロナ禍の今なのでしょう。

その「不確実性」を意識せずやって来れた日常を、僕は今、懐かしく思いますが、いわゆる「平和ボケ」の時代は終わるのかもしれません。

ジェイズ・バーでウイスキーを愉しむことを、リスクが高いと判断する方がいるだろうことを僕は否定できません。ただ、リスクという言葉の日本語の意味を「危険」ではなく「不確実性」と捉えていただければ幸いです。

リスクとコストより以上にベネフィットをお返しするのが、商売人の務めとの思いを一層引き締めて参る所存です。

多くの皆様に理解していただけますように。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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