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【パヨクが行く】靖国神社遊就館

 ※靖国で暴れたとか落書きしたとかそういう話ではないよ!!!
 ちゃんとお賽銭落としてきたしカフェと食堂を堪能してきた。綺麗だし美味しいからメチャおすすめ。








まえがき


 タイトルでオチてしまっているが、私は公職者による靖国参拝及びこの靖国神社が提示する歴史観─通称”靖国史観”には否定的な立場をとっており、Xのアカウントとかで表立って批判することはなかった(そもそも政治アカ作ってないし)。
 が、これまで私は靖国の境内に足を踏み入れたことが無かった。
 嫌いなとこならそれでもよくね? と思う向きがあるかもしれないが、私は何かについて述べるときにはそれについてちゃんと知っておく必要があると考えている。展示の解説も読まずに伝聞で批判するとかクズの極みでしかない。
 それに、靖国については様々な紀行文がネットにあふれているが、否定的な人間が書いたものってそんなにないから貴重なのではとも思い立ち、先日ついに重い腰を上げて渦中の総本山たる靖国神社遊就館を訪問、その顛末をここに記す次第である。
 一応警告しておくが、この記事では靖国遊就館の展示をだいぶ否定的に語っているのでそれが苦手な人は注意してほしい。


なお、私が『大東亜戦争』ではなく『アジア・太平洋戦争(以下略して太平洋戦争とする)』と呼称するのは、”大東亜”というフレーズが”アジア新秩序建設≒アジア征服”のニュアンスを含ん(by当時の内閣情報局)でおり、私はそうした史観には与しないという姿勢を表明するためである



夢の国へようこそ


 まず、館内に入ってすぐ目を引くのは、日の光を浴びて玄関ホールに鎮座する巨大なゼロ戦52型。艦これやアズレンプレイヤーにとってはお馴染みの戦闘機だが、実物を前にするとその巨大さに圧倒される。
 これが何十機と艦載されていた空母とはいったいどれだけ大きかったのだろうか。データとして知っている長さが感覚に落とし込まれると、見え方がまた変わってくる。
 付随している解説パネルには「大東亜戦争」「当時最強を誇った」などのフレーズが並び、早くもここが”一般的な”戦争博物館とは異なる”靖国史観”の聖地であることを実感せざるを得ない。

 しかしここで恐れおののいては靖国遊就館を攻略するなど夢のまた夢。時間は限られているから先へと進まねばならない。私は逸る心を抑えつつ入場券を購入し、エスカレーターで2Fへと上がる。拝観順路はもちろん靖国史観を骨の髄までしゃぶり尽くす120分の豪華フルコースだ。
 エスカレータを降りてすぐの広場には、これまた”戦争の悲劇”を強調するほかの美術館では決してお目にかかれないような、”勇ましい”ナショナリズムと美術が結びついた彫刻や絵画が装飾品としておかれている。これだけでも美術史の素養がある人なら記事一本書けそうな代物であるにも関わらず、なんとまだ入り口をくぐったばかりなのである……これから先に広がる”夢の国”に、私の身体は早くもゾクゾクと好奇心で震えていた。

 ”愛国保守”の精神的支柱たる本居宣長らの歌や元帥に与えられた刀などが展示されたオープニングフロアを抜け『日本の武の歴史』と名付けられた部屋へと入る。
 中には甲冑や刀が飾られており、一見しただけでは雨後の筍のように建っている地方の歴史博物館にありそうな展示室だ。
 しかしここは靖国遊就館。解説パネルに目を通せば、戦前愛国教育の源流とも呼ぶべき水戸学の開祖である徳川光圀であったり、楠木正成や赤穂浪士の自らの生命を捧げた忠義を紹介しているなど、すでに”靖国史観”の基礎固めは始まっている。こんな博物館が日本全国にあったとしたら私は頭が可笑しくなっていただろう。



坂の上の雲、雲隠れした反逆者たち 


 明治維新を紹介するコーナーでは、幕末の日本に襲い掛かる帝国主義列強の脅威と、それに立ち向かった志士たちの奮闘が描かれている。
 しかしここでは、充実した討幕運動の解説と比べて、大政奉還の意図や戊辰戦争での死者数など靖国に祀られていない旧幕府軍への言及は少ない。
 また、日本が近代国家となっていく中で、当時は境界線であった南西諸島やアイヌ民族(ロシアが来航するようになった18世紀ではアイヌ民族との間にクナシリ・メナシの戦いが起きるなど、未だ日本が完全に支配した状態ではなかった)が大日本帝国へと取り込まれていく過程についても記述はない。
 もちろん、これについて目くじらを立てる必要はないという意見はもっともであり、これこそが私がパヨクたる所以なのだが……これ以降の展示に見られる間違ったことは言ってない(あえて語らないことで印象を変える)という遊就館の姿勢が徐々に表れていく片鱗のようなものであるためあえて言及させていただく。

 明治維新を経て、次に待ち構えていたのは国内最大にして最後の内戦、西南戦争の展示室。部屋ひとつ分を割いて説明しているのは少しびっくりした。が、考えてみれば西南戦争(及び戊辰戦争)は靖国神社の創設に関わっているのである。そらそうよ。
 内戦かつ”賊軍”の総大将が西郷隆盛ということもあってか展示パネルの説明はどこか抑制的だ。
 それと比較すると、その次の展示室の壁に書かれていた靖国神社創設までの流れには、靖国神社が【明治維新・大日本帝国に貢献した”英霊”たちを祀る神社】であることを感じ取ることができ、視点もより新政府軍寄りになっている。このパートには海外の観光客向けであろう英語による解説文が併記されていないことも印象的であった。

 さて、国内基盤を整えた明治政府がいよいよ海外へと打って出ていく時期に差し掛かると、展示パネルの文章も途端に高揚していく。おそらく近年靖国を支えているミリオタに向けてか、三景艦や千代田形などの初期軍艦に関する記載もかなり充実している。
 ”非白人後進国家だった日本が改革と努力を経て次々と戦争に勝利して、とうとう世界の一流国へとのし上がったぞ!”と誇らしげに語る様に、パヨクたる私まで乗せられて盛り上がってしまいそうになるほどだ。
 そしてその眩しい光に覆い隠された存在─二つの戦争の舞台となった朝鮮半島や戦争を支えた国民のナショナリズムが暴走した日比谷焼き討ち事件─について、もちろん視点は向けられない。
 しかし、これが”視点の多様性を担保する博物館の中の一つ”とみればその価値は侮れない。特にナショナリズムが高揚し、国民自らが主体となって戦争を支える当時の世相に関する解説愛国主義の視点から集められた資料・展示などが充実している場所など他にはほぼないといってもいい。

 むしろ普段は”帝国主義による市民への搾取”や”戦争の悲惨さ”といった部分からしか戦争を見ない、左寄りの人こそ遊就館に行ってより多様な考えや情報に触れて視野を広げるべきなのだ! と、ステマではなく割とガチで私は薦めたい。



”日本被害者論”と向き合って


 そして、”坂の上の雲”日露戦争を終えた遊就館は、いよいよ現在靖国の存在に大きく影を落とす太平洋戦争(靖国では一貫して”大東亜戦争”の呼称が用いられる)へと踏み込んでいく。
 ここからの展示に共通して流れる思想、それは「日本は平和を貫きたかったが他国の意地悪により仕方なく戦争へと突入するほかなかったのだ」という徹底的な”日本被害者論”である。
 満州事変の切っ掛けとなった張作霖爆殺事件では”誰が”については触れられず、関東軍の蜂起・日中戦争(靖国は徹底して”支那事変”の呼称を用いる)は”中国ナショナリズム”により日本の”主権”が脅かされた正当防衛なのであって、日本は本当はしたくなかったのだと言いたげだ。そして日中戦争の展示パネルに記された「蒋介石は全土での戦いにする戦略をとったため戦争が終わらず、最終的に連合国の一員となれた」という一文からは「おめーらには負けてねぇから!!!」という悔しさがありありと伝わってくる。
 また、太平洋戦争に関しても一貫して資源を輸出せず交渉を突っぱねた欧米諸国が悪いという視点に立って描かれており、敗戦に向けた交渉でも日本には無条件降伏しか認めなかったことが犠牲者が増えた”原因”だと暗に主張するところも精々しいくらいに一貫している。
 意外だったのは、これらの主張に反する日本に都合が悪いこと、例えばリットン調査団が出した妥協案を蹴ったことや、何度も示されたレッドラインを嘲笑うかのように破って進む日本軍の南方進出、ハルノートが出されたタイミングではすでに真珠湾攻撃のための機動部隊が出撃していたこと(そもそも海軍は9月には戦争準備を終えており、アメリカの対応に関係なくこの時点で開戦はほぼ確定していたようなものである)、そして敗戦間際に降伏を阻止しようとした陸軍の反乱についても”記載は”していることである。
 ただ、こうした”日本被害者論”に都合の悪い部分は(おそらく反論に備えて)”書かれているだけ”で、それを踏まえた説明はなされていないと私は感じた。

 もちろん、世界恐慌に端を発する世界的な経済の混乱やそれへの対応として進められたブロック経済など、日本に非がない事情が関わっていたことは否定できない。アメリカの交渉が強硬だったことも事実である。
 しかしその過程で防げた事象(例えば関東軍の暴走や経済が回復しつつあった中での野心的な拡大路線など)に対する反省・再発防止を追求する姿勢や、勝てる見込みが薄くなった44年時点から繰り返された無謀な作戦による犠牲者の急増、そしてこうした流れを止められなくさせた原因─ナショナリズムの過激化・対米戦を理由として予算を獲得した結果負担者である国民からの突き上げに応じざるを得なくなった旧軍の官僚主義等─の分析などが放棄され、ただの”美しく悲しい物語”を布教するだけの組織が仮に国による後ろ盾を得てしまったら……それが、私が靖国の権威化を危惧する理由なのだ。

 そうして”大東亜戦争”の展示を見終え、すっかりお腹一杯、どころか胃もたれすらしていた私には、特攻兵たちや戦後ロシアで抑留され強制労働の犠牲となった兵士たちがしたためた最後の言葉に対し、それに共感するというよりも彼らのような同世代の若者が命を散らす原因となった末期の無責任な国内体制に対する怒りとそれを防がなければならないという決意しかもたらされたものはなかった。



デザートではなくメインコンテンツ─戦後アジア諸国の独立─

 

 しかしメインコンテンツはまだ残っている!!!
 
ある意味今回の旅最大の目的であるソレは、出口付近に鎮座している
 
 戦後アジア諸国の独立地図

 これこそが、靖国が抱える深淵であり、この神社への参拝が今後日本や国際社会へと受け入れられていく上でかなり問題になると私が考えているものだ。
 地図は年代ごとに独立した国ぐにを色で塗り分けて示しており、「”大東亜戦争”はアジアの皆を助けたんだ」という靖国史観ここに極まれりな内容となっている。
 色々言いたいことはあるが、一先ず百歩譲って同意するとしよう。
 
 ねぇ、大韓民国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は色も塗られてなくて心なしか文字も薄いよね!?!?!?!?!?

 ……うん。
 正直、この地図の存在は知っていたものの心の中では半信半疑だった。
 いくら靖国とはいえ、さすがにそんな突っ込みどころ満載なことをするわけがないし何かしらの注意書きがついているものだと思っていた。
 しかし、実物を前にし、注意書きがあるどころか見えにくい高いところにひっそりと”書かれてはいる”朝鮮半島の扱いを見て、
 
 「あっ、ガチだったんだこれ……」

 という困惑しかなかった。
 例えば韓国だけ塗られていて北朝鮮は空白だった場合、単に政府見解に従ったんだと考えることができる。しかしこれでは言い訳は苦しい。明らかに都合が悪い存在であることがありありと伝わってくる。

 振り返ってみると、靖国の展示では、近代日本にとって避けることができないはずの朝鮮半島に対する記述は意図的に避けられていた
 ふたつの戦争を通して戦場となった朝鮮半島の被害、状況や韓国併合、植民地化の状況など、時に美化して語りたがる一部の右派よりはマシとはいえ、一切触れないというのもあまり賛同できる姿勢ではない。
 しかし、振り返ってみれば、大戦時日本軍に属して戦ったにもかかわらず戦後別の国の国民となったことで補償がなされなかった旧日本軍属朝鮮人問題など、そもそも戦後日本自体がそうした事実から目を背けていると言えるかもしれない。

 先に述べたように、日本にも斟酌してもよい事情があったのも事実である。
 ただ、そうした”弱い”日本が”強い”欧米と戦う中で、その惨禍に巻き込まれ、踏みにじられて多くの犠牲者を出すこととなった”さらに弱い”朝鮮半島や東南アジアおよび北海道・沖縄の人々に対しては、”語らない”ことを選択した靖国とは違い、私はそれに対する視点をどうしても捨てることができないのだ。






エピローグ@千鳥ヶ淵


 そうして”夢の国”靖国遊就館の展示を見終え、さらに特別展も見た私は、皇居沿いに南下して千鳥ヶ淵へと来ていた。
 荘厳でどこか浮世離れした靖国と比較すると、主要な道路からは離れた静かなところに位置しており、お陰で靖国で高揚した感情も少しずつ落ち着いていく。
 千鳥ヶ淵は宗教色が薄い場所として設定され、戦争で命を落としたすべての日本国民を鎮魂する施設である。置かれていた新聞には、先月の15日─敗戦の日─にキッシーが献花するため訪れたことが記されていた。
 もちろん、あの戦争で家族を亡くした人々が自らの考えに従って死者に会いに行く場所として靖国がこれからも存続していく必要がある。
 しかし、首相、すなわち大日本帝国の後継国家である日本国政府の代表者が訪問し、鎮魂し今後このようなことを繰り返さないと決意を表明する場としては、軍属かどうかに関係なくすべての人々を弔う千鳥ヶ淵への訪問のほうがより望ましいと、私は感じた。






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