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なぜ作るのか。

韓国人の友達がいるのだが、文法って難しいなとその友達目線で考えてみることがある。
それに加えて、方言だとか敬語だとか重なったり
そもそも、教科書が間違っていたりするから外国で生きるのは困惑するに違いない。

そんな感じで、他人の人生を分かってあげたかったなと思う経験が最近多くあった。



信じていたものがある時崩壊して、何か新しい物を信じなければならない境遇に陥った時、
その新しい状況は、縁だとか巡り合わせになるのだと思う。

崩壊という言葉は大げさに聞こえるかもしれないけれど、良く言えば新しい自分に生まれ変わる様な、悪く言えば呪いに気付いてしまった様な出来事を崩壊だと思った。精神的にも肉体的にも。

今まで見えていなかった側面を見つけては反省したり、神経が過敏になりすぎていたりする自覚がある。つまりバランスが取れていない状況。

自分を犠牲にしながら生きていくのは美しくない
何かを犠牲にしながら生きていくのも美しくない

そんなバランス感覚を見失う状況がここ1年間続いたのだけれど

"何かを作っていくことは間接的にも何かを否定することになる。全てが丸い球体として喜び受け入れられるものではない"

というとある話を聞いて、何かを少し犠牲にしながらそれに対して祈りを捧げて、自分も少し傷つきながら生きていくのが、バランスを丁度良く保つのでは無いかと思うようになった。

と、一体何を言っているのか分からないというのが、他人の人生を分かってあげれない歯がゆさだと思う。

分かってくれる人が居たら単純にとても嬉しい


1度暗い世界を見てしまったら、それにとらわれて生きていくしかないのかも知れない。
ハードモードな人生は自分だけではないという安堵もありつつ、それでも絶対に分かり合えない孤独が誰と接していてもある事に気づいた。

わたしより年下の子がどんな重荷を背負って生きているのかと、興味から入って結局は自分には何も出来ない歯がゆさを、精神科の閉鎖病棟では味わうことになった。

誰しも踏み入れることが許されないような闇を持っていて、半分呆れているし冷めてるとも感じた

ただ呆れて冷めた人生を送るのも悲しいなと、過去の自分を振り返っても思うので、自分の空間にこもってないで、人に伝わるものだとか、誰かと何かを作っていきたい。

何かが無くなった時の事を思いながら作っている

ただ楽しいと思ってnoteを始めて、いつも自由に空白を埋める作業なのだけれど、創作意欲が作品を追い越さないようにだけ気を付けたい。

こんな感じで何かに衝撃を受けたり、美しいと思ったり、また崩壊を繰り返さない様に何かにすがったり、結局は傷つきながら生きていくのかなとこれからの人生の予測をたてた。

宮﨑駿さんの、君たちはどう生きるか を観て思った感想でもある。

この世の中は不思議なことばかりだ。


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