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自己責任論を唱える人は幸せか?

最近、自己責任論をよく見かける。

日本は様々なところに自己責任論が満ちている。「受験に失敗したのは勉強が足りなかったから」、「貧乏なのは本人の努力不足」、「投資に手を出して損するのは自業自得」「前科者が差別されるのは本人の行動の結果なんだから当たり前でしょ?」、「感染対策を怠った新型コロナウイルス感染者に税金を使うな」、などなど…。

世の中の大半の人間は、まだこの自己責任論を、何の疑いも持たずに振りかざしている。しかし一方で、ネット上ではこの自己責任論に異を唱える人々も存在する。

この上の記事が自己責任論を痛烈に批判している。

この記事が説明しているとおり、高所得層の人間ほど自己責任論を唱えている印象だ。というか、データがないので推測になるが、きっと以下のような因果関係があるのだろう。つまり、幼少期に何らかの「努力が実った経験」を積んだ人間ほど自己肯定感が育ち、自分の人生を自分でコントロールしている感覚に覚えやすい。自分の人生をより良くするために勉強やスポーツなどあらゆることを全力で頑張る。そんな人間が実際に社会的成功を収めて、発言力が大きくなると「努力で人生は変えられる!」みたいなことを声高に提唱する。これが、SNS時代の到来によって、社会的に成功している人の発言力は更に大きくなり、自己責任論が世論の大半を形成するに至った。

しかし、社会的に成功するかどうかはともかくとして、自己責任論は万能だろうか?「テストで落第した」という結果を経験したときに、「運が悪かったんだな」と捉える人もいれば、「自分の勉強が足りなかったんだな」と捉える人もいるが、これはどちらも正しく事実を認識していると言えるだろう。このように、同じ事実を認識しても受け取り方が人によってことなるのは、教育心理学における「統制の所在」が外側にあるか、内側にあるかの違いでしかなく、どっちが正しいとか間違っているとかそういう話ではない。

世の中には統制の所在が外側にある人もいるが内側にある人もいる。1つ目の論文では統制の所在とうつ病の関係に言及しているし、2つ目のメンタリストDaiGoのブログでは、統制の所在の在り処と所得の関係に言及している。

自己責任論を巡っては、よく、「自己責任論者は優しくない!」とか「自己責任論者は格差を助長する!」みたいに批判の的になることが多いが、どの批判もいまいちピンとこない。なぜなら、自己責任論を振りかざす人というのは得てして個人主義が強い者が多く、「社会のため」に考えを改めるとは思えないからだ。だから、本記事のように「自己責任論は考え方の一種でしかなく、他の考え方もあるよ」という風にして、新しい思考のフレームワークを与えてみるのはどうだろうか。

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