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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第55話 余りにも安い人の命の価値

前回の話はこちらから
 
https://note.com/malaysiachansan/n/ne343f29d99c6
 
 この話は2021年7月まで遡る。この日、マレーシアのポートクランでコンテナリース会社を経営する氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、取引先での午前中の打ち合わせを終え、オフィスに車で戻る途中だった。ちなみにクラン市一帯はマレーシア屈指の工業地帯で、多くの工場や倉庫が軒を連ねている。それもあって特に朝夕は交通渋滞が酷いことで有名なのだが、この日は午後3時にもかかわらず、長い渋滞に巻き込まれていた。
 
 「なぜこんな時間に混むのだろう」。そう考えた氷堂であったが、ようやく渋滞の先頭に来た時に、その理由に気付いた。すぐ横の大きな工事現場の足場が崩落していたのだ。
 

 
 酷い事故だった。この様子なら、恐らく死者も出ているだろう。結局この渋滞を抜けるのに2時間を要した。普段ならオフィスまでは30分もあれば到着するのだが、この近辺は抜け道もなく、氷堂の車はただただ渋滞の列に並ぶより他なかった。そのため午後の予定をキャンセルせざるを得なくなった。
 
 
 同じ日の夕刻、仕事を終えた氷堂は車のラジオをニュース番組に合わせた。すると正に昼間の事故の件が扱われていた。ニュースキャスターは言った。
 
 
「マレーシア消防局によりますと、本日セランゴール州クラン地区のバンダー・ブキ・ティンギにおいて、大規模な崩落事故が発生しました。この事故現場では2024年に開通予定のモノレールの工事が行われており、その足場が崩落した模様です。残念なことに、工事現場で働いていたバングラデシュ人1名の遺体が回収されています。これで建設現場における大規模な事故は今年だけで既に5件目となり、当局の安全体制に対して疑問の声が寄せられています」。
 
 
 ニュースを聞きながら、氷堂は改めて感じた。「なんと労働事故が多い国だろう」と。確かにマレーシアでは、こういった建設現場の事故が毎日のように起きている。そしてほとんどの場合、亡くなるのは立場の弱い外国人労働者だ。政府は、そして事業主たちは、起きた事故から何も学ぼうとしない。これがこの国の平常運転だ。
 
 
 さて翌朝、氷堂は港湾の保税区にいた。
 

 
 ここで氷堂の会社は何百というコンテナを管理しているのだが、その仕事を担っているのも、やはり外国人労働者たちだ。するとその中の一人で、現場のリーダーであるアニクが近づいてきた。アニクはパキスタンから出稼ぎでやってきた30代のスタッフで、氷堂の会社で働き始めてから、早いもので4年が経過していた。ちなみに現場には約20名の外国人労働者がいるのだが、英語を話せるのはアニクだけで、それ以外の人達はアニクの通訳を介してコミュニケーションを取っている。アニクは最も頼れる存在だ。
 
 さてアニクが氷堂を見るなり、神妙な面持ちで声を掛けてきた。
 
「リツさん、おはようございます。少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか。昨日、クランのLRTの工事現場で事故が起き、バングラデシュ人が亡くなりました。そのことをご存知でしょうか…」
 
 氷堂はまさかアニクから昨日の事故の件を聞かれるとは思っていなかった。それで返答した。
 
「いやぁご存知も何も、あの時僕は事故現場の横を車で走っていて、渋滞に巻き込まれて大変だったんだよ。それにしても何故そのことを僕に聞くのかな?」
 
 氷堂はアニクに聞き返した。するとアニクは何故かさらに表情が暗くなった。そして口を開いた。
 
「実はあの亡くなったバングラデシュ人なんですが、今まで私と同じ寮に住んでいたんです。部屋こそ別なんですが、休みの日などは一緒に昼食を楽しむ仲でした。彼はまだマレーシアに来たばかりで、年齢も20代前半でした。その彼があんな事になるなんて…本当に悲しいし、悔しいです」。
 
 そう言うとアニクは目に涙を浮かべていた。黙って耳を傾ける氷堂に、アニクはさらに話を続けた。
 
「今日の午後3時から、近くのモスクで彼の葬儀が行われます。もし可能なら…早退させていただけないでしょうか。葬儀に参加したいのです。勿論その分の給料は引いていただいて構いません。彼を最後に弔いたいんです」。
 
 そう言うとアニクは頭を下げた。その様子を見て、氷堂も答えた。
 
「アニク、事情は良く分かったよ。僕としても、ぜひアニクには葬儀に参加して貰いたいと思っている。その分の給料を引く必要もないよ。日頃からアニクには本当に良く働いて貰っているからね。そうだ、僕が車でモスクまで送っていくよ。アニクも含めて外国人労働者を多く抱えている身としては、今回の事故も他人事とは思えないんだ。それでいいかな?」
 
 氷堂の寛大な申し出にアニクは少し驚いていたが、それを受け入れると、笑顔を取り戻した様子だった。そして再び午後3時に会うことを約束すると、アニクは仕事へと戻り、氷堂の方も保税区を後にした。しかしその後に氷堂が目にしたのは、法令軽視がまかり通るずさんな建設現場の現状と、余りにも安い人の命の価値だった。
  

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香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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