Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第10話 超移民社会が意味するところ
前回の話はこちらから
https://note.com/malaysiachansan/n/na63934ec92eb?magazine_key=m0838b2998048
氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)の職場はポートクランの中でもノースポートと呼ばれるエリアにある。ここは東南アジア屈指の面積を誇る保税区を有しており、その中には何万個というコンテナが留め置かれている。これら一つ一つに所有者がおり、その多くはリース会社が所有権を保持している。朝8時、いつもの様に氷堂が職場に着くと、本来では既に働き始めているはずの港湾労働者が出勤していない事に気付いた。その様な中で、現場責任者であるケヴィンだけは出勤していたので、氷堂は彼に尋ねてみた。
「おはよう、ケヴィン。あれ、なんで今日はいつものメンバーが出勤していないのかな?」
ケヴィンは答える。
「リツ、ちょっとしたトラブルがあってね。いや、大した事じゃないんだけど、ノースポートの入り口に陸橋があるだろう。あそこが今工事をやっていて大渋滞なんだよ。港湾労働者のバスは、道幅が広いあの道からしかここに入れないから、今は渋滞に巻き込まれているらしい。港湾も道路くらい早く整備して欲しいよね。いや、整備をするために工事をしているのか。まぁ、いずれにしても30分もすればみんな出勤するだろうから、それまでは待つしかないね。」
氷堂は「なるほど」と思った。ノースポートに入るには幾つかのルートがあるのだが、メインとなるのはケヴィンが言った様に大きな陸橋を通って入るルートだ。しかしこの陸橋は造られてから既に数十年が経過しており、老朽化が進んでいた。確かに先週港湾当局は、この陸橋の補修工事が始まる旨を発表していた。一方で普段氷堂が使用するルートはこのメインルートではない為、渋滞に巻き込まれずに済んだのだ。
色々と考えていると、ケヴィンが話を続けてきた。
「でも良く考えると、港湾労働者には本当に感謝だよな。彼らがいなければ、我々の仕事は絶対に回らない。家族を置いて外国の地で、本当に良く働いてくれているよね。」
確かにケヴィンの言う通りだ。ポートクランには18,000人以上の港湾労働者がいるのだが、実はその90%以上は外国人労働者だ。彼らの多くはバングラデシュかパキスタンからの移民で、その殆どが20代か30代の若者である。彼らは2年程度の短期ビザを取得し、このマレーシアの地で働く。そして収入の多くを母国へと仕送りし、残してきた家族がその仕送りで生きていくという構図だ。
しかし彼らの収入は決して満足行くものではない。例えばポートクランの港湾における外国人労働者の平均賃金はRM1,500(約4万円)に過ぎない。マレーシアでの平均世帯収入の中央値がRM5,000(約13万円)以上に及ぶ事を考えても、余りにも少ない数字だ。しかしそれでも彼らにとっては、4万円でも母国で働く給与の数倍に当たるらしく、マレーシアで出稼ぎをしたいという者は後を絶たない。そもそも母国では給与水準どうこうの前に、仕事すら見つからない事も多い様で、マレーシアへのチケットは言わば「プラチナチケット」の様に考えられているようだ。とはいえマレーシアでの生活も決して楽なものではない。朝から晩まで働いて4万円程度しか貰えない訳だし、何より労働者としての立場が極めて不安定なのだ。
港湾というものは毎日同じ時間に同じ船が到着する訳ではない。季節や日によって、到着する船の数やサイズは異なる。そのため貨物の量も一定にはならない為、殆どの港湾荷役の会社は最低限の管理職のスタッフしか直接雇用しない。それ以外の労働者は皆、派遣会社から送られてくる派遣労働者なのだ。氷堂の会社も同様で、現場責任者であるケヴィンを含めた数人が正社員として在籍してはいるものの、それ以外の毎日働きに来ている労働者は全員派遣の外国人だ。彼らは所属している派遣会社の業績が傾くと、すぐに雇用契約を打ち切られてしまう。この場合、彼らにとっては一大事である。なぜならそれはただ職を失うという事に留まらず、滞在ビザが失効する事を意味するからだ。そうなると残された道は二つしかない。一つは母国に帰る事、もう一つは不法移民としてマレーシアに残る事だ。そして多くの外国人労働者は後者を選ぶ事になる。
この点で氷堂は、常日頃から現場に来る外国人労働者を大切にしたいと考えていた。それは何より、自分自身が外国人であるからに他ならない。氷堂は外国の地で会社を経営している訳だが、「外国人」という大きい枠組みで見れば、彼らと同じような立場だ。氷堂も彼らも母国に親類や友人を残して異国の地で働いている。一方で多くのローカルは外国人労働者を無下に扱うのだが、氷堂は自分自身では絶対にそうはしないと心に決めていたし、ケヴィンや自社の社員にも絶対それを許さなかった。そして氷堂の会社は、相場よりも25~40%も高い賃金を外国人労働者に対して支払っており、しかも毎年昇給させていた。そうする事によって、優秀な外国人労働者が集まり、職場での生産性が高まる事も知っていたからだ。このような事をする会社は港湾の中でも殆どなく、氷堂の会社は外国人労働者の間で、言わば「人気の会社」の一つとなっていた。
色々と思いを巡らせていると、遂に待っていたバスが到着した。
バスには大勢の外国人労働者が乗っており、それぞれが割り当てられた現場へと向かっていった。そしてその中の一人に、氷堂の会社で長年働くアサドがいた。アサドは氷堂に気付くと、小走りで走ってきてこう言った。
「リツさん、今日は遅刻してしまって申し訳ありませんでした。宿舎を出たのはいつもと同じ朝7時だったのですが、途中渋滞してしまっていて。一生懸命働いて後れを取り戻します。」
氷堂の会社が依頼している外国人労働者は20人以上いるのだが、その中で英語が喋れるのはアサドだけだ。アサドはパキスタンからの移民で、マレーシアに来て早いもので7年になる。彼はマレーシアに来た時点では英語を全く喋れなかったのだが、独学で勉強し、今では何ら問題なくコミュニケーションを図る事ができる。一方で他の労働者は全く英語が喋れない。そのためアサドが英語で指示を受け、彼がその指示を外国人労働者の母語であるベンガル語やウルドゥー語に通訳するという形で仕事が行われている。このような殆ど言語が通じない中で仕事をする事は、恐らく日本人にとっては想像ができない事かもしれないが、それもここでは普通の事だ。氷堂はアサドに返答した。
「あぁ大丈夫だよ。この国では工事渋滞なんて良くある事さ。それよりもアサドが勤勉に働いてくれるから助かるよ。じゃあ早速だけど、ケヴィンから指示を貰って仕事をスタートしてくれるかな。」
氷堂の言葉を受けてアサドは仕事を開始するかと思ったのだが、もう少し何かを話したそうにしている。それで氷堂は彼に尋ねた。
「アサド、何か他に言いたい事があるのかな。」
アサドは答える。
「はい。実は….私の友人の住んでいる宿舎でコロナのクラスターが発生しまして、この週末に大勢のバングラデシュ人が亡くなりました。仕事が終わった後にその事について少し相談したいのですが、お時間を頂けないでしょうか?」
「コロナ」「クラスター」、これらのキーワードはこの1年間で何千回も聞いた言葉だ。しかし彼ら外国人労働者が述べるこれらの言葉は、ローカルや氷堂の様な立場の人間が考えるそれとは大きく重みが異なる。外国人労働者の多くは、コロナになれば医療にあずかる事が出来ずに亡くなり、回復しても間違いなく仕事を失う事になる。そしてこの現実こそ、日本では考えられない、超移民社会の意味するところなのだ。
その事を知っていた氷堂は、更にアサドから話を聞きたいと思った。一体アサドの友人に何が起きたのだろう?外国人労働者として非道な仕打ちを受けたのだろうか?彼らが置かれている現状はどれだけ厳しいものなのだろうか?それがマレーシアの治安や経済にどの様な影響を与えているのだろうか?氷堂はそれを知るために、アサドに対して、夕方6時にまた港湾の現場に戻ってくる約束をした。
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ちゃん社長のコンテナ・海運業界・マレーシアの裏話。
香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…
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