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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第14話 多民族国家ゆえの軋轢

前回の話はこちらから

https://note.com/malaysiachansan/n/nc94ef8ebe81c

 午後2時、氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)はオフィスを出て取引先との会合に向かった。氷堂はコンテナの短期リースを専門にした会社をマレーシアのポートクランで営んでいるが、この日に会う事になっている取引先は、コンテナを必要としている船社や荷主を紹介してくれるエージェントだ。こういったエージェントなくして氷堂の仕事は成り立たない訳だが、先方の社長が「今日は特別に大切な話がある」と言うので、氷堂は彼らの会社へと車を走らせた。

 彼らの会社はポートクランから車で45分ほどのUSJと呼ばれるエリアに位置している。USJと言っても、日本のユニバーサルスタジオジャパンとは何の関係もない。この地域一帯は1974年、Sime UEPというマレーシアを代表する大手のデベロッパー会社が開発を始めた。その頃までは、この辺りは雑木林が生い茂っていたと言われているが、UEP社による開発に伴い、多くの住宅が建設される事になった。この土地がSubang Jaya(スバンジャヤ)という行政区分の名称を持っていた事から、その頭文字を取ってUSJ(UEP Subang Jaya)と呼ばれる様になった。現在USJには数十万人が生活しており、マレーシアの中でも最も人口密度が高いエリアの一つとなっている。このUSJの開発は、東南アジアにおける都市開発の成功例の一つとして挙げられるほどだ。

 さてそのUSJエリアの外れに、氷堂の取引先はあった。このエリアも住宅街と同じく1980年代以降に急速に発展した工業エリアで、見渡す限り工場と倉庫が続いている。取引先の会社の前に車を停めた氷堂は、早速オフィスの中に入っていった。

 レセプションで自分の身元と今日のアポイントについて説明した氷堂は、受付の脇にあるソファーに腰を落とした。5分ほど経つと、今日会議をする事になっている社長のイシャンがやってきた。イシャンは40代のインド系の男性で、身長は160cmほどしかなく、しかも細身であるため、外見的にはとても貧相に見える。しかし彼は1代で年商10億円近くに及ぶこの会社を築き上げた生粋の実業家であり、この土地のインド系住民からもとても敬われていた。実際イシャンという名前には、「金持ちの先駆者」という意味がある様なのだが、その名前を体現したような人物だ。

 イシャンは氷堂に話しかけてきた。

「リツさん、ようこそいらっしゃいました。わざわざ足を運んで頂き、本当にありがとうございます。」

 氷堂は返す。

「いえいえ、こちらこそお呼び頂きありがとうございます。普段USJエリアに来ることは余りないのですが、本当に沢山の家や工場が並んでいますね。住み心地も働き心地も良さそうなエリアです。そして本当に立派なオフィスですね。」

 確かにイシャンの会社のレセプションには、黒を基調とした非常にスタイリッシュなソファーやテーブルが置かれており、この工業地帯には似つかわしくない様相を呈していた。その中で何よりも目を引いたのは、レセプションの中央に鎮座した大きなガネーシャの像だった。

第14話 ガネーシャ像

 このガネーシャの像を見ただけで、イシャンが敬虔なヒンドゥー教徒である事を理解できた。氷堂に褒められたイシャンは気を良くして話を続けた。

「リツさん、お褒めの言葉ありがとうございます。私たちが今ビジネスで成功できているのも、全てヒンドゥー教の神様のお陰だと思っています。そしてヒンドゥー教の重要な教えの一つに、『家族を大切にする』というものがあります。ですから私も他のヒンドゥー教徒も、休みの日にはできるだけ妻や子供と過ごす様にしていて、家族全員で寺院に礼拝に行くようにしているんですよ。」

 饒舌になったイシャンの表情を見て氷堂も嬉しくなったが、氷堂は何故イシャンが自分をオフィスに呼んだのか、その理由をまだ聞いていなかった。それで氷堂は尋ねてみた。

「イシャンさん、インド系の方々の信心深さには本当に頭が下がります。私達日本人には絶対に真似できない特質だと思います。ところでイシャンさん、大切な話があるとの事でしたが、一体どういったご用件でしょうか?」

 笑顔で尋ねた氷堂であったが、イシャンは急に表情を曇らせて、真剣な眼差しで話しかけてきた。

「リツさん。これまで私たちの会社はリツさんの会社と3年にわたり取引をさせて頂いています。本当に感謝しています。しかし来月から数か月間、それが難しくなるかもしれません。数か月で済めば良いのですが、もしかすると私たちの会社の事業の存続自体が危ぶまれる状況になる可能性もあります。今日はその事について説明したいと思っていました。」

 予期せぬ不穏な話を投げかけられた氷堂は困惑した。その困惑を他所にイシャンは話を続ける。

「私たちにとって最も大切なのは信仰です。それはお金よりもビジネスよりも大切です。いえ、むしろ信仰があるからこそ、神からの祝福として仕事の成功が与えられたと考えています。しかしその信仰が踏みにじられようとしています。私たちはそれと戦わなければならないんです。」

 イシャンが敬虔なヒンドゥー教の信徒である事は以前から知っていたし、今日オフィスの受付の様子を見て尚のこと理解できたが、それとイシャンの会社の事業の存続がどのように関係するのか、氷堂は理解できずにいた。その様子を見たイシャンは話を続けた。

「実はこの近くにマリアマン寺院というヒンドゥー教のお寺があります。」

第14話 マリアマン寺院 昼

「私やその仲間は毎週末その寺院に行き、礼拝を捧げています。実際この寺院の歴史は非常に古く、建立されたのは今から100年以上前だと言われています。その後、1974年に今の寺院の建物が造られました。ちょうどこの地域がUEP社によって開発されて、インド系の人口も増えだした頃で、沢山の人数を収容できる寺院が必要とされていた為です。しかし今、この寺院が取り壊されようとしているんです。」

 氷堂が真剣に耳を傾けると、イシャンは話を続けた。

「この近くにUSJ ONE Cityという複合モールがあります。そこにはホテルやショッピングセンター、オフィスなどが入居していますが、現在このデベロッパーが近隣の開発を続けており、その都市計画の中にこの寺院が入っているんです。私たちの信仰の拠り所とも言えるこの寺院を、彼らは壊そうとしています。彼らは寺院の代替地として、この寺院から3.5km離れた場所を私たちに割り当てました。しかしこれは到底承服できません。考えてみて下さい。100年も前からあった寺院です。彼らがビジネスを始めるよりも遥か昔からここに存在していたんです。それを彼らの勝手な都合で動かすなど、とんでもない話です。」

 その話を聞いて、氷堂は質問した。

「なるほど。私は外国人なので余計な事は言えない立場なのですが、その件は裁判所に訴えられたのでしょうか?」

 その質問に対し、イシャンは答える。

「勿論です。この裁判は2007年から続いていて、デベロッパーと何十回にもわたり話し合いが続けられてきました。しかし彼らは自分たちの主張を譲らない。そして先日、遂に裁判所の判断が下りました。11月22日付で、その寺院はデベロッパーによって差し押さえらえる事になり、それ以降は入場が許可されなくなりました。事実上の立ち退きです。私たちはその裁判の結果に納得していません。何よりもマレーシアにはマレー系が69%もいるのに対し、私たちインド系はわずか7%しかいません。1960年代まで私たちインド系は著しく不利な立場にあって、義務教育を受けられない者も大勢いました。現在ではそういった目に見える差別はなくなりましたが、それでもこの様なセンシティブな問題に関しては、常に不利な立場に立たされていて、私たちが納得の行くような判決が下る事はないんです。」

 氷堂はイシャンの表情を確認した。真剣な表情の中に、沸々とした怒りを垣間見ることができた。そしてイシャンは声を大きくしてこういった。

「この寺院は私たちの生活の全てです。この寺院のお陰で、私たちはここまで生きてくる事できました。ここを彼らに明け渡すわけには絶対にいきません。11月22日、私と仲間たちは寺院に居座るつもりです。徹底的に戦います。」

 氷堂は尋ねた。

「でもそんな事をしたら逮捕されてしまう可能性もあるのではないですか?」

 質問の後、長い沈黙が続いた。そしてイシャンは口を開いた。

「逮捕は覚悟の上です。だからこそ今日、リツさんをオフィスにお呼びして『今後は仕事が受けられなくなるかもしれない』と説明したのです。社員には今回の事を伝えてあります。そして幸いな事に弊社にはインド系の社員が大勢いるのですが、何人かの社員は一緒に居座る事に協力してくれるとも言っています。もしかするとご迷惑をおかけする事になるかもしれません。その際には、どうかご容赦下さい。」

 イシャンの決意を聞いて、氷堂にはもう返す言葉が無かった。氷堂はオフィスを出ると、会社のあるポートクランまで車を飛ばした。


 2週間後、いよいよイシャンたちが通う寺院の立ち退きの日がやってきた。この日まで氷堂はイシャンの事が頭から離れなかった。実際氷堂の会社にとって、イシャンの会社は最も信頼できる取引先の一つだった。彼の会社は仕事にしても支払いにしても、それが期日に間に合わないという事は一度たりとて無かった。恐らくそこには、「真面目に仕事に取り組むように」というヒンドゥー教の教えが関係していたに違いない。その彼が全てを失うリスクを冒してまで、寺院の立ち退きに反対している。一体彼は何と戦おうとしているのだろうか?彼をそこまで駆り立てるものは一体何なのだろうか?それで氷堂は仕事が終わると、マリアマン寺院へと車を走らせた。氷堂は自分自身の目でそこで何が起きているのかを確認したかったのだ。しかしまだこの時には、マレーシア中を揺るがす大きな暴動がそこで起きるとは、誰も予想していなかった。

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香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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