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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第5話 横浜港での修練

前回の話はこちらから
 
https://note.com/malaysiachansan/n/n7daf74d2f467?magazine_key=m0838b2998048

ジェラム~ポートクランまでの道

 氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、車で自宅のあるジェラムへと向かっていた。ポートクランからジェラムまでの道のりは見通しの良い1本道で、信号すら殆どなく、のどかな風景が延々と続いていた。そして氷堂は車を運転しながら、なぜ自分が今マレーシアに居るのかを振り返ってみた。確かにここに至るまで、長い道のりがあった。


 氷堂は静岡県の伊豆半島にある田舎町で産まれた。そこは美しい海と山々に囲まれており、風光明媚な観光地として毎年大勢の観光客が訪れていた。氷堂の父親は地元の中堅企業に務めていた。それは機械関連の会社であり、静岡県内ではそこそこの知名度がある企業でもあった。その本社は県西地域にあるのだが、この伊豆の田舎町にはその企業が運営する最も大きな工場があった。氷堂の父親はその工場の現場監督として長年務めており、氷堂が生まれる前から20年以上も転勤する事なく、その工場一筋で働いていた。

 一方で母親は専業主婦だった。彼女は結婚前には金融機関で働いていたらしいが、それも数年間だけで、結婚と共に寿退社をしたと聞いている。父親、母親共に静岡県の出身であり、友人関係から恋愛関係になり、そのまま結婚したと聞いている。なので二人とも、静岡県以外の事を殆ど知らない。もとよりそのような静岡県民は少なくない。静岡県民の中には、生まれ育った町で大人になり、そのまま地元で結婚して子供を育てるケースも少なくないだろう。時に静岡県民の県民性は閉鎖的と揶揄される事もある様だが、このような環境が代々続いていけば、そうなるのも無理もない事かもしれない。

 氷堂の人生を変えた出来事と言えば、小学校2年生の時の出来事を挙げられるかもしれない。その時、母親が氷堂に1枚のチラシを見せてくれた。それは近所で始まった公文式の教室のお知らせだった。当時は現在ほど公文式が認知されておらず、母親自身もそれを初めて知った様子だった。そして母親は氷堂に通ってみたらどうかと勧めてきた。そして氷堂は興味本位で公文式の教室へ通い始める事になった。

 公文式を始めるとすぐ、氷堂は算数の分野で、同じ学年の生徒よりも遥かに速い計算力がある事が明らかになった。公文式はひたすら計算問題を解く事で計算力を伸ばす勉強方法なのだが、この方法が氷堂にはピッタリと合った様だった。氷堂はすぐにそのコツをつかむと、わずか半年の間で自分の年齢より2学年上の小学校4年生までの計算を習得した。更に氷堂は公文式にのめり込んだ。そして最終的には小学校5年生の段階で、高校3年生の微分積分まで全て解ける様になってしまった。そして当時の公文式には高校3年生までのカリキュラムしか存在しなかった為、氷堂は無事に公文式を「卒業」する事になった。この幼少期に身に着けた算数・数学のスキルが、後になって氷堂のキャリアを助ける事になるとは、この時点では思いもよらなかったのだが。

 一方で氷堂は、国語・理科・社会・英語といった他の科目の勉強は大嫌いだった。更に算数や数学の授業も氷堂にとっては簡単過ぎたため、それらの授業も殆ど寝て過ごしていた。結果として氷堂は常に無気力で、授業態度の悪い学生となっていた。そんな氷堂であったが、授業が終わると一人で小高い山に登り、海を見ながら時間を過ごすのが日課となっていた。

第5話 伊豆

 氷堂にとって海を見て過ごす時間だけが唯一安らげる時間だった。学校の友達ともそれなりに仲良く過ごしていたが、それらに時間を費やすよりも、一人で海を見る時間の方が好きだったのだ。誰にも邪魔される事なく、自分と向き合う事ができたからだ。そして時折氷堂はこの場所で、自分の将来について黙想した。何の目標も無かった氷堂だが、数学だけは得意だった。それで氷堂は県内の商業高校を受験する事にした。商業高校ならば会計などを学ぶことができ、そしてそれは得意な数学を活用できるので、結果的に一番楽だと考えたからだ。そしてこの商業高校へ行くという決定が、氷堂の将来に大きな影響を及ぼす事になる。


 商業高校に通い始めた氷堂は、簿記の勉強を始めた。氷堂は母親が居間で家計簿を付けているのを見て、そしてそれに一喜一憂している母親の表情を見て、帳簿を付けるという行為に興味を持っていた。そしてその帳簿の公式なシステムが「簿記」というものだと知って、それを勉強してみたくなったのだ。幸い商業高校では簿記のための専門の授業もあったほどで、それを学ぶのには非常に適した環境だった。

 簿記の勉強を始めた氷堂は、水を得た魚の様にそれに集中した。学校から帰宅するとすぐにその勉強を始め、毎日2~3時間はそれに費やした。しかし氷堂にとって簿記の勉強は何ら苦ではなく、むしろ楽しみだった。それはちょうど小学生の時に公文式が与えられた時の感覚に似ていた。例えて言えば、ゲームを攻略する時の様な感覚だったのだ。その結果、氷堂は簿記の知識をどんどんと吸収していった。そして氷堂は高校2年生の時点で、日商簿記2級と全商簿記1級の試験に合格した。試験は全て一発合格であった。これは商業高校の同学年で最も早く、最も優秀な成績であった。

 しかし試験に合格するという目標をやり遂げてしまった氷堂は、良くない癖が再び現れ始める。公文式を卒業した時と同様、簿記の試験に合格した氷堂は、それ以外の勉強のやる気を全て失ってしまったのだ。その結果、授業の殆どを寝て過ごす様になった。そのうちに高校3年生になり、進路を決めなければいけない段階になってしまった。

 もう氷堂にとって勉強は懲り懲りだった。自分の好きな勉強ならともかく、好きでもない勉強を強制されるのは、氷堂にとって苦痛でしかなかった。それで氷堂は大学に行かずに就職する事を考えた。幸い商業高校には高卒で就職する生徒も一定数おり、それに対して企業からのあっせんも少なからずあった。氷堂にとっては正直なところ、勉強さえしないで済めばどんな企業でも構わなかった。この様に就職活動にも無気力な氷堂であったが、求人案内の中に一社だけ「横浜」という文字を見つけた。田舎者の氷堂は、横浜に対して強い憧れを持っていた。もとより伊豆の生まれた町から横浜までは2時間程度で着くため、何度も観光で行った事はあったのだが、横浜の街が近づくたびに期待が高まるのを経験していた。今思えば、それはただの田舎者の胸の高鳴りに過ぎないのだが、当時の氷堂にとっては、「横浜=憧れの街」だったのだ。それで業務内容も良く確認せずに、氷堂はその会社に応募する事にした。その会社は横浜港の港湾の荷役業務と、それに隣接する保税倉庫における検品業務などを行なっている会社だった。

 比較的人当たりの良い氷堂は、最初の面接で担当官の心を掴んだ様だった。実際面接は一度しか行われず、すぐに内定通知が届いた。この点で氷堂は運が良かったと言えばその通りなのだが、働き始めると、すぐに高卒でも容易に採用された理由が理解できるようになった。そこは想像を絶する壮絶なブラック企業だったのだ。

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香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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