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NHKBSプレミアム『Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助』視聴メモ

NHKBSプレミアム『Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助』(1時間30分)を視聴。織田信長に仕えた黒人侍(ざむらい)、弥助の発掘と研究をしているイギリス人研究者、日本大学法学部准教授ロックリー・トーマスさん。1968年に出版された児童小説『くろ助』来栖良夫・著。「信長の野望」を作ったゲームプロデューサーのシブサワ・コウさん。弥助がどこから来たのかという謎を解く鍵は、弥助の雇い主であるイエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(アジアへの布教の最高責任者だった人物)である。キリスト教を日本に広めるためヨーロッパからやって来た人物である。日本が戦国時代を迎えた16世紀半ば、イエズス会は世界各地へ宣教師を送り込み、その勢力を拡大していこうとしていた。岡美穂子さん(日本のキリスト教の歴史を専門とする)が今回初めて弥助の調査協力をする中で注目したのは、ヴァリニャーノが1574年8月に書いた手紙。日本へと向かう途中に立ち寄ったアフリカでの出来事を報告したものである。「パードレ(宣教師のこと)の奉仕のために司令官が[宣教師の身の回りの世話をしてくれる]奴隷たちを与えてくれた」と記されており、ヴァリニャーノがアフリカ出身の奴隷を貰っていた事実が明らかになった。更にこう続く、「もらった奴隷の何人かはすでに他人へ譲渡した。私は3人を自分の手元に残し、うち2人をリスボンのサン・ロケ修道院へ送った」つまり一人だけをヴァリニャーノは自分の手元に残したということが書かれている。ヴァリニャーノが手元に残したこの奴隷こそ弥助なのではないか?更に、労働力として使う奴隷ではなく身辺を警護する従者として弥助を見出したのではないかと岡さんは推測する。当時ヨーロッパではアフリカから連れてきた奴隷を従者にする富裕層がいた。従者になるには外見・容姿が整って美しいことや優れた能力を持っていることが求められた。さらに、弥助の出身地がこの手紙から浮かび上がってきた。モザンビーク島というアフリカ南東部に浮かぶ小さな島から、と書いてある。モザンビーク島は16世紀、ポルトガル人が支配しアジア貿易の中継地として栄えた。この地で弥助とヴァリニャーノは出会ったと考えられる。ヴァリニャーノがやってきた当時、奴隷たちは市場に集められ取り引きされていた。ここに連れてこられたのはアフリカ大陸の沿岸部に暮らす人びと。部族間の争い(?もっと詳しい言い方が必要)に敗れて捕虜となりポルトガル人へ売り渡されていた。ヴァリニャーノの手紙から、弥助は島にある要塞の司令官のもとで奴隷として働いていたと考えられる。そんな日々の中でポルトガル語やヨーロッパの生活様式を身につけ、ヴァリニャーノに気に入られたのではないか。アフリカの東海岸、モザンビーク島の近くに暮らす部族の少年。家族と引き離され、その流転の人生が始まる。イエズス会の宣教師たちはポルトガルの船に乗り、大航海時代に開拓された航路でアジアへと向かった。弥助はヴァリニャーノの従者としてインドの港町ゴアに立ち寄ったと考えられている。当時ポルトガルはこの地をアジアの植民地支配の中心としていた。町は発展し「黄金のゴア」と呼ばれるまでに。イエズス会にとってもアジア布教の重要な拠点となる。インドとアフリカの関わりを研究する香港大学名誉研究員クリフォード・ペレイラさんは、弥助にとってゴアは人生を変えた場所だと言う、「ゴアにはイエズス会によって設立された聖パウロ学院という学校があった。私の考えでは、おそらく弥助は聖パウロ学院の生徒だった。」。イエズス会がゴアに暮らすポルトガル人子弟のために作った聖パウロ学院。ここでは読み書きから数学、哲学など幅広い学問を教えていた。「聖パウロ学院にはモザンビーク出身の生徒がいたことが分かっている。他にもアフリカ人の生徒がいた。当時におけるインターナショナルスクールですね。」1550年代に聖パウロ学院にいた生徒の出身地はモザンビーク、イラン、ゴア、スリランカ、ミャンマー、インドネシアなど。「弥助はゴアの聖パウロ学院で学問だけでなく鉄砲の扱いも学んだ可能性がある。」聖パウロ学院では軍事訓練も行われていた。アジアへの進出を図るポルトガルにとって、鉄砲や大砲を扱える兵士が必要とされていたからである。ヴァリニャーノに見出され、アフリカからインドへと連れて来られた黒人の青年、のちの弥助は、教養のある護衛・ボディーガードとしてヴァリニャーノを支えた。1577年、弥助はヴァリニャーノと共に、再び旅立ち、そして戦国時代の日本にたどり着くことになる。映画監督キム・バース(Kim Bass)。440年前、弥助を乗せ日本にやってきたポルトガル船。当時の様子が屏風絵に残されている。海外との貿易港として栄えた長崎は商人や宣教師が暮らす国際色豊かな町だった。屏風絵に描かれた行き交う人びとに目を向けると肌の黒い人の姿もある。白人のポルトガル人はみな靴を履いているが、黒人はみな裸足である。100人以上の奴隷が描かれているが、名前が記録されているのは弥助だけ。
本能寺の変が起こる3年前、長崎県島原半島の最南端・口之津(くちのつ)と呼ばれるこの場所に弥助は降り立った。ここを拠点にヴァリニャーノは九州各地に布教を進めた。黒人侍、弥助について講演する、もともと黒人文学を40年以上研究してきた松本昇さん。口之津教会が建てられた。九州でおよそ1年7ヶ月を過ごした弥助とヴァリニャーノ。時の権力者に会うためこの地を発つことになった。本能寺の変の1年4ヶ月前のことである。弥助がヴァリニャーノに従い降り立ったのが大阪・堺。海外貿易の一大拠点だった港町である。当時の堺の町は開口(あぐち)神社を中心に通りに面して店や家が立ち並んでいた。鉄砲の生産地として名を成した堺には全国から多くの人がやって来た。弥助を伴ったヴァリニャーノはいよいよ京都に入る。天下統一に向け権勢を振るう織田信長に謁見するためである。1581年2月、あの本能寺の変が起こる1年3ヶ月前のこと、今ある本能寺は豊臣秀吉によってこの場所に移され、建物は後に再建されたものである。謁見の場となった当時の本能寺は現在の場所からおよそ1.5km離れた所にあった。慶長10年( 1605年)頃に描かれた『相撲遊楽図屏風』に弥助と見られる人物。日本アフリカ関係史の研究者、藤田みどり氏。信長は弥助と共に天下統一を目指したが、本能寺の変で信長は自害。しかし弥助は生き延びる。弥助は信長の自害のあと、信長の長男・信忠の妙覚寺で明智も軍勢と戦った。おそらく信長の最期の命令で弥助は信忠のもとに駆けつけた。しかし信忠も自害。弥助は信長も信忠も守ることができなかった。弥助は明智光秀に命を救われ南蛮寺に預けられイエズス会に戻った。ラション・トーマス監督のNetflixオリジナルアニメ「Yasuke -ヤスケ-」は弥助のその後の人生を想像して描いている。ロックリーさんは弥助のその後について、本能寺の変から2年後の長崎・島原半島の合戦、確証はないものの或る黒人の記述をイエズス会の文書の中に見つけた。「有馬殿(弥助が暮らしたとされる口之津の領主・有馬晴信のこと。有馬晴信がヴァリニャーノに洗礼を受けキリシタンとなった大名。)は陣営に二門の大砲を据えた。大砲に(砲弾を)装填することの出来る一人のカフル人(アフリカ系の黒人を示す言葉)が居合わせた。」有馬領での戦いで大砲を扱える黒人がいたということ。合戦に勝利した有馬晴信は共に戦った大名へ祝いの品に犬を献上することにする。弥助は加藤清正の家臣になった?弥助には妻子がいた?

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