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昔良き昭和の楽しかった小学校時代の思い出1

小学校に上がるまでは、祖母は旅館を営業し、両親と祖母との4人暮らしでした。たまに、板前さんであった3男の叔父さんが、色んな食材を持ってきて、土間で料理してくれました。
土間には、かまどがあり、小学校に上がる頃までは、コメは薪で炊いていました。
ふぐやウナギやすっぽんなど、高級食材を生きた状態で、木桶に入れて持ってきては、その場で捌いて振舞ってくれました。
すっぽんに棒を噛ませて、そのまま吊り上げ、首を抑えながら、皮を綺麗に剥き、首を落として血を取る姿や、ウナギを刺して、包丁でさっと開いていくスピード感など、カッコ良さに、感激したのを覚えています。
料理の味は、まったく覚えていませんが、すっぽんの血は飲ませてもらえず、羨ましく思った記憶があります。
小学1年ごろまで、その叔父さん夫妻は、新築した離れに住んでいましたが、子供を授かって、すぐに、自分の家を建てて引っ越して行きました。
その板前の叔父さんには、料理のうんちくを聞かされながら、安くて? 美味しい日本料理店に連れていってもらえました。
寿司屋では、薄味のネタからスタートし手で食べるのが基本だが、口直しのガリは箸を使う事、また、サバやこはだのしめ方、アナゴの口溶け具合で職人の腕が分かる事や、おでばな、おてしょ、むらさき、あがりなどの言葉などのうんちくを聞かされたので、小学生で通になっていました。
さび抜きの寿司を食べた記憶はありませんが、やっぱり小学校時代は、トロ、いか、エビ、穴子、たまごの五色太巻きが大好きでした。
叔父さん独自の考え方と思いますが、40歳を超えると手のひらの皮脂の分泌量は減少するので、シャリが手に付きやすくなり、美味しい寿司が握れなくなると言っていました。叔父さんも40歳ころからは、寿司を握る事は辞めており、子供の頃は信じていました。
また、焼き物は、皮と身の間に刺す櫛の位置が命で、味もふっくら感も大幅に変わるとか、言っていました。
経験的には、素材の良しあしが大きく、高い有名な老舗が、やはり美味しいです。ただ、安くても美味しいコスパの良い店が増えているのも確かだと思います。
食べ物に関しては、結構子供ころから色んな物を食べてきました。
ただ、未だに、納豆とらっきょは食べられません。

当時、ちょうどテレビが普及してきた時期で、叔父さん夫妻を含めて、力道山のプロレステレビ中継を、みんなで観ていました。空手チョップ、バックドロップで大きな外人を倒して行くのは、スッキリした気持ちになっていました。
その力道山が、刺されて亡くなった事も聞きました。
小学校に入る前からテレビはあったので、ベンケーシや逃亡者など海外ドラマを良く見ていたので、テレビっ子になっていました。
叔父さん夫婦が引っ越した後は、中学校に上がるまで、離れが私の部屋になっていました。
小学校に入る前は、ギプスが嫌で、幼稚園は、サボって行きませんでした。
小学校に上がるタイミングで、ギプスは外しています。軽症だったので、ギプスの必要性はなく、休まずに小学校に通いました。
遠足も普通に参加しており、当時は上級生が下級生を連れていくのですが、上級生1人に対して、下級生2~3人と言うの普通だったと思いますが、私一人に対して上級生2名と言うVIP待遇でした。
小学校低学年の時は、まだ痩せており小さく、少しビッコを引いていたので、母性本能をくすぐったのか知れませんが、誕生会など、遊びに来るのは、女の子が圧倒的に多かったです。リカちゃんハウスなどの高級おもちゃがあった事も要因だったと思います。
しかし、オーモーレツのCMで、スカートめくりが流行り、男女の壁ができて男子ばかりに変わりました。
小学校4年ぐらいになると、2レーンタイプですが、家に結構長いレーシングコースがあり、個々のレーシングカーを持ちより遊ぶ男子が多くなりました。私は、市内にある専用の有料コースが好きでしたので、家では見ているだけで、みんなも気兼ねなく遊べたのも良かったと思います。
また、離れに住んでいたので、部屋も広く、庭もあり、色んな遊びができた事も男子にウケた理由だと思います。
そのような事で、小学校時代までは、同級生などの出入りは多かったです。
近所の3人組の男子グループに入っていました。そのうち一人が、ジャイアン的存在で、その号令に応じて、色んな事をやりました。
玄関のピンポンを押して逃げるピンポンダッシュや列車で10円玉を潰して手裏剣を作ったり、ロケット花火を連結して発射したり、解体屋に潜入して地下タンクで遊んだり、今では補導されるようなバカな事を楽しんでいました。
小学校3年生の時に、東京オリンピックが開かれ、授業中に女子バレーの試合をテレビで観戦するような余裕のある時代でした。
学校給食は牛乳ではなく、不味い脱脂粉乳時代でした。
今では食べれない鯨の竜田揚げは定番で、揚げパン、カレーシチュー、ポテトサラダが人気がありました。すべてアルマイト食器で、脱脂粉乳やシチューなどの汁物は入れ過ぎると熱くて持てなかったです。
月から金までは給食があり、アルマイト食器を置いたトレーを持って並んで、そこに給食当番が配膳していくと言う流れでした。ちなみに、土曜日も午前中は授業はありました。
当時は、パン以外のおかずや脱脂粉乳は残す事は許されませんでした。
最初は泣きながら無理やり食べされていた子も、慣れてくると食べられるようになっていたと思います。
休んだ子のコッペパンと宿題は、近所の子が届けると言う形でした。
また、当時、腸に居るサナダ虫を排除する海人草を飲む行事が年数回ありました。独特の臭みと味で、飲みほすまで、前に立たされていました。
今では考えられませんが、良き昭和の楽しい思い出になっています。
また、”ちんば”や”フランケン”などの今では問題ありそうなあだ名や陰口もありましたが、陰湿でなく短期的で、今のイジメとは質が違ったと思います。
先生は学校内では怖い存在で、圧倒的な力を持っていました。
当時は、廊下に立たされたり、出席簿による叩きは日常茶飯事でした。特にげんこつ落としや出席簿の角落としが容赦なく来るので悪い事は出来なかったです。
当時でも怪しい先生はいましたが、子供ながらにもわかる程、先生の上下関係がはっきりしており、問題なりそうな事は行えなかったと思います。
また、学校外で交流もある先生もいて、相談や遊びに行ったりもする事もありました。
親も先生を尊敬しており、学校行事の手伝いも進んで行っていました。
今と同じような事もあったと思いますが、大事になる前に浄化作用がすぐに働き、短期で解決していたと感じます。
先生の威厳を取り戻して、親子で尊重するような流れを作る大きな改革が必要と思います。子供には恐い存在が必要で、それが先生であることが理想的と思います。
それでも学校からのはみ出し者は、絶対に出てきます。躾が難しい子供たちの性根を鍛え直す再教育システムや専用の施設も必要と思います。
また、学校行事参加における特別休暇の取得できるようにすれば、親たちも参画しやすくなると思います。
昭和の良き時代では、そこの児童でなくても、構内に出入り自由で、夜まで遊べました。夏の夜では花火などもでき、学校中心の生活でした。学校に行けばだれかいて楽しめた時代でした。
また、夏休みには、近所でラジオ体操が開かれ、学校と家庭および近所は親密で、一体感がありました。また、必ず地域毎に怖い大人が居て、無茶な事はできなかったです。
要は、一日中楽しい遊びに忙しくて、変な事を行う時間や体力は残っていなかったと思います。
小学校時代は、立たされるのが嫌なので、最低限の宿題はしましたが、それ以上の勉強をした記憶はありませんでした。
近所の3名を集めて、小学校の先生がバイトで家庭教師を行っており、私もその塾に参加していました。
そこで、学校と同じテストを行っていたので、学校では2回目になるので、満点が確実に取れる状態でした。
一時期、クラス内で噂になってしまったので、数問わざと間違えるようにしました。ただ、書き取りテストなどの正規試験以外は、落第点でした。
音楽に関しては、子供の頃に親が無理やりオルガンを習わせようとした反動か、根からの音痴のためか、まったくできませんでした。
大人になっても音痴で困っています。
通信簿としては、算数、理科、社会は5、国語は3(書き取り試験が悪い)、図工は5、音楽・体育が2と言うのが、定番でした。
この中部東小学校は、歩いて10分ぐらいの所にあり、1クラス約40名で3クラスあり、学年120名ぐらいでした。
1995年(平成7年)3月に廃校になり、他の小学校に統合され、四日市市立中央小学校と言う名前に変わったそうです。その2年後に、中部東小学校跡地にに新校舎が建てられ、四日市市立中央小学校として移転したそうです。
卒業した東小学校は無くなり寂しいですが、同じ場所に新しい小学校ができている事が救いです。
当時は情報も少なく、時間が優雅に流れて、色んな事が自由にできた時代と思います。子供同士だけでなく、近所での和気あいあい感もあり、昔良き楽しい小学校時代だったと思います。

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