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思い出5               従妹達との楽しい思い出

小学校高学年の頃から、親父の妹である叔母が精神疾患に罹り、離婚して入院するようになったため、祖母がその叔母の介護を引き受けることになりました。私が6年生のときには、病院の近くに別の家を購入し、祖母がそちらに引っ越しました。
そのため、おもちゃ屋を営むお袋だけでは私の世話をすることが難しく、特に中学校に入ると弁当も必要になったので、徒歩で約10分の距離に住むお袋の兄である叔父のところにお世話になることになります。
お袋には兄が2人おり、そのうち次男のK叔父さんは、市役所を挟んで実家の反対側、歩いて約10分の場所に化学工業製品総合商社を経営していました。
商社の2階が自宅であり、四日市石油コンビナートなどで使われる化学薬品などの卸問屋が主な商売でした。当時は、化学物質などの倉庫も併設されていました。
小学校5年生から6年生の頃、私はよくK叔父の家でお世話になりました。
K叔父には2人の娘がいて、長女のYさんは私より6歳年下で、次女のNちゃんは8歳年下でした。
私の就職先を斡旋してくれたのもK叔父であり、埼玉で就職した後も、長女のYさんの結婚式にも招待され、K叔父が数年前に亡くなるまで、様々お世話になりました。
現在、K叔父が経営していた会社は、郊外に保管庫などを2つ持ち、仙台に支店を構える年間80億円の売り上げを誇る株式会社に成長しています。
K叔父は商社の社長であり、ダンディでカッコよく、高級レストランや高級居酒屋にも連れて行ってもらったことがあります。
焼き鳥屋にもよく連れて行ってもらいましたが、つくねばかりだったので、焼き鳥=つくねだと信じていました。
私が連れて行かれた焼き鳥屋では、つくねと言っても、色んな部位から作られたり、味付けの異なるたくさんの種類がありました。
こちらで食べるつくねとは別物でしたが、俗に言う焼き鳥を知ったのは、埼玉に移ってからです。
そして、つくねはタレと塩の2種しかなく、マイナーな存在であることも理解しました。昔連れられていった焼き鳥のつくねは懐かしいです。酒が飲めるようになった大学の時には、すでに無くなっていたので残念です。
また、K叔父に連れられてゴルフ場に行くこともありました。その当時、会員制のゴルフ場では早朝から子供も入場でき、運動靴を履いていたため滑りやすかったですが、広いゴルフ場で打つことができ、とても楽しかったです。
社長で付き合いが多いK叔父は複数のゴルフ場の会員だったようで、1つの場所では子供がコースに入れなかったものの、レストハウスで待っている間に温泉やサウナに入り、美味しいパフェや豪華なホットケーキを楽しむことができました。
就職した際には、K叔父からお古のゴルフ道具一式をいただきましたが、会社で2回だけ使用した後はゴルフをする機会がなくなりました。K叔父からは子供の頃から様々なことを教えてもらい、大変お世話になりました。

お袋のもう一人の長兄であるR叔父さんは、車で約10分の距離にある鉄工場の工場長でした。K叔父の会社の近くに、その工場の寮兼自宅を持っていました。
私が中学校に入ると、弁当が必要になり、寮を併設しているR叔父のところにお世話になることになりました。
朝、寮に寄って朝食をとり、弁当をもらって学校に行き、夜は実家で寝るという日課ができました。
お袋が家出でいなくなった時には、約1ヵ月ほどR叔父の寮で寝泊まりさせてもらいました。
寮には鉄工場の若い職人が約5名、食事付きで寝泊まりしていたので、1人増えても問題ありませんでした。個室ではなく、2〜3名ずつ和室で分かれて布団を敷いて寝ていました。プライバシーはありませんでしたが、当時は誰も不満を言いませんでした。給料が上がると、寮を出て一人暮らしを始めるので、寮内の出入りは頻繁でした。
その寮で、花札やチンチロリンなどの賭け事を覚えました。麻雀には参加しませんでしたが、役やルールは何となく把握できるようになりました。
これにより、少しずつ大人の仲間入りができた喜びも感じました。
R叔父は、K叔父とは異なり、鉄工場の叩き上げの職人風で、無口で怖そうな印象で、取っ付き難い感じでした。その反面、奥さんは下町のお母さんといった感じで、人当たりが良かったので、お袋も叔父さんよりも叔母さんに頼ることが多かったようです。
寮の切り盛りはすべてR叔母さんが行っていました。当然ながら、叔母さんが作る料理は美味しかったですが、特にネギ焼きは絶品でした。
広島風お好み焼きのような薄い生地にネギを乗せるシンプルな食べ物でした。
R叔父の鉄工所で作った厚い鉄板を使っていたので、均一に熱が伝わり、最高の舌ざわりの薄い生地になっていました。しょう油味の薄い生地に、生地が半生の状態のタイミングでネギと天かすを乗せて焼くと、ネギが少し蒸されて甘味が出て、シャキシャキの触感が一体になります。それを二つ折りにして手で食べる軽食になります。
天かすが良いアクセントになり、とても美味しく、何枚でも食べられるネギ焼きでした。たまに、エビやカニなどの魚介類の身を細かくほぐして調味したデンブや、鶏肉などのミンチや豚バラ肉を入れることもありましたが、それも別物のおかずとしても美味しかったです。

基本的には、夜は実家に戻るので、おもちゃ屋に寄って、隣のレストランや近くの定食屋、あるいは家で出前をとることが多かったです。
おもちゃ屋の隣のレストランは、四日市名物の「とんてき」の発祥地として有名になりますが、近年廃業したと聞いています。
その洋食屋さんは、何でも美味しかったです。
鉄製の皿を熱々にして、そこに溶いた卵を流し入れ、別途具と一緒に炒めたトマトソース味のスパゲッティを入れたナポリタンは絶品でした。トマトソースで炒められたスパゲッティが、半熟の卵と合わさることで、卵の甘味が強調され、通常のナポリタンとは異なる美味しさでした。冷めにくいので、最後まで熱々で食べられるのも良かったです。
また、ビーフステーキも絶品でした。
分厚く切った霜降り肉に塩コショウを振り、分厚い鉄板で焼くだけのシンプルなステーキでした。表面はカリッとして香ばしく、中は血も滴ると言う表現がぴったりで、綺麗な赤色です。霜降りの脂が赤身に溶け込み、牛肉独特の甘さが感じられ、美味しかったです。
ただし、その時の肉の状態によって焼き方はお店にお任せです。
ウェルダンの場合、肉の香りが強調され、別のあっさりした美味しさを堪能できました。肉の素材を最高に引き出す焼き方が最高でした。
豚においても、同様に固くならない焼き方でトンテキに繋がり、四日市名物になったと思います。
それ以来、ステーキ専門店ではいつも、料理人のお勧めの焼き方でお願いするようにしていますが、レアの方が外れが少ないような気がします。
また、近くの定食屋にも良く行きました。トンカツ、エビフライ、カニクリームコロッケの定食をよく頼みました。
このように、夜は自分の好きな脂っこい肉類中心で、小学校高学年頃から太り始め、中学校3年生の時には完全な肥満児になっていました。
祖母が引っ越ししている小学校高学年から高校1年生ぐらいまでは、K叔父さんやR叔父さんにお世話になることが多くなりました。R叔父さんにも2人の娘さんが居て、長女のTさんが私の3歳下、次女のKちゃんが5歳下でした。
お袋の家系では、女の子の名前はひらがな2文字という決まりがあったようです。お袋も従妹の4人全員が2文字のひらがなの名前でした。
私だけが男で、苗字も違いますが、私から見て、3歳下のTさん、5歳下のKちゃん、6歳下のYさん、8歳下のNちゃんが従妹になります。私が一人っ子だったので、姉妹ができた楽しさを感じて、その4姉妹とよく遊びました。
R叔父家に集まることが多かったですが、テレビゲームがない時代で、リカちゃん人形遊びや人生ゲーム、トランプやカルタなど、これまでに経験したことのない家族団らんを楽しみました。
特に、正月に行うトランプ大会の大富豪は、一日中楽しんでいました。従妹達と基本的に5人でプレイし、叔母さん達も参加することもあり、7人になります。5〜7人がベストの人数で、とても楽しかった思い出です。また、飽きてくると7並べなどもして、朝から夜まで1日中楽しんでいました。
7並べも、端(13K)まで行くと反対側(1A)からスタートするルールであり、大人数で行うと、8とか6で留めていると逆に最後になってしまうと言う事もあり、状況の読みが重要で、楽しかったです。
夏場には、皆で家の前の片道2車線の広い道路の真ん中にある5mぐらいの幅の分離帯で花火を楽しみました。おもちゃ屋なので、種々の花火を持ち込んで、線香花火、手持ち連射花火、噴き出し花火、打ち上げ花火、回転花火など、多くの花火で遊びました。特にお気に入りは、ロケット花火を連結して打ち上げるもので、2段目がどこに飛んで行くかわからず、スリルがありました。
当時は交通量が少なく、道路には街灯もなく、電線もなかったため、暗い分離帯での花火はピッタリでした。今では考えられない場所で花火を楽しんでいました。
また、ザ・スパイダースが長島温泉に来た時に、2家族+お袋、私で観に行った時のことは、鮮明に覚えています。当時私は小学校高学年ぐらいで、まだ一番下の従妹は小さかったと思います。その日は子供たちよりも、お袋や叔母さん達がノリノリで楽しんでいました。
通常、長島温泉の演芸場は机と座布団が置いてありますが、その日はすべて取り払い、スタンディングの鑑賞でした。堺正章や井上順がステージの端から端まで走り回る姿や、かまやつひろしのエレキギターパフォーマンスなど、まさに観る価値のあるショーでした。ちなみに翌年に、ザ・スパイダースは解散しています。
生演奏やパフォーマンスは迫力があり、感動しましたが、従妹達はすぐに飽きて、私が先導して温泉内の冒険や大浴場などに行きました。
私の役割は完全に子守でした。Sさんに連れられて、長島温泉に関しては隅々まで知っていたので、問題はありませんでした。
当時の円形大浴場は、男女湯の仕切りが植え込みだったので、男性が群がって女湯を覗いていました。途中から水槽に変わり、最後に壁になったと思います。
また、脱衣所で脱いで、2階階段から降りてくるのですが、そこから女湯が丸見えでした。徐々に改善されていきましたが、ほんわかしている昔良き時代だったと思います。従妹たちを連れて行くのですが、一番上のTさんは男湯に入ることに抵抗していましたが、最後は折れて一緒に男湯に行きました。彼女が小4ぐらいだったと思います。自分の娘も、夏休みなどには、長島温泉に良く行きましたが、小学校6年ぐらいまでは、一緒に男湯に入っていましたが、周りの男の子の視線が気になるようになって、一緒に入らなくなりました。
当時、男湯の方が大きく、滑り台や水風呂もあり、子供が楽しめる湯船が多かったので、子供たちは男風呂に入りたがりました。
そのようなことで、従妹たちみんなで、大浴場で遊んだり、第2ホール?のステージで遊んだり、ゲームセンターなどを探索したりしていました。当時、ステージが2つあり、最初からあるのは小さいステージで、その後に大きな3500人が入れる大ホールが作られました。本当は大ホールが第2ホールだと思いますが、不明です。

当時の円形大浴場は、男女湯の仕切りが植え込みだったので、男が群がって女湯を覗いていました。途中から水槽に変わり、最後に壁になったと思います。また、脱衣所で脱いで、2階の階段から降りるところから女湯が丸見えでした。徐々に改善されていきますが、ほんわかしている良き時代だったと思います。
従妹達を連れて行くのですが、一番上のTさんは男湯に入ることに抵抗していましたが、最後は折れて一緒に男湯に行きました。彼女は小4ぐらいだったと思います。

高校生の時に、その大所帯で、伊勢志摩にある合歓の郷にも行っています。通常、予約でいっぱいの人気リゾート地ですが、急に行けなくなった人から譲られたということで、当日に誘われて、急遽行きました。叔母さん2名、従妹4名、私の7名でした。広大な敷地内に、小さな別荘建屋が、本当の別荘地のように、ポツンポツンと建てられていました。手ぶらで行けるすべてが揃っている高級貸別荘のイメージです。追加ベッドを入れれば、10名ぐらいは泊まれます。自炊もできますが、外でのバーベキューを楽しみました。伊勢志摩ですので、海の幸が豊富で、自然の中で食べるバーベキューは最高でした。
ゴルフ場やミニパターゴルフやニスコートや野外コンサートホールなどもあり、6人乗りのカートやレンタサイクルで郷内を移動できました。1周30分くらいだったと思います。カートは、運転免許がないと借りられなかったですが、従妹たちを乗せて、私が運転して周遊していました。警備員らに注意されなかったので、暗黙の了解だったと思います。ミニパターゴルフなどで遊び、海岸線散歩などをして、自然を一日中楽しむことができました。
また、帰る際に、高級そうなバスタオルなどを記念として持って帰ろうと言うことでバッグに入れました。
チェックアウト処理している間、私は建物の前で荷物番をしていました。清掃スタッフが、バスタオルの備品が無いことに気づいて、持ち帰リできないので、戻すように言われました。
みんなのバッグに入っていることは知っていましたが、他人のバッグだから開けられないと、自分のバッグだけを開けて、自分のバスタオルは返しました。みんなが戻ってきたら、清掃用の大きな洗濯カートに入れさせますと、納得させて、立ち去らせました。みんなが戻ってきましたが、当然のように、記念として持ち帰りました。掃除用のカートには、すでにたくさん入れられていたので、気づいていないと思いますが…、もう時効ですよね。
指摘したスタッフも笑っていたので、気づいても許される良き時代だったと思います。その後、暫くは、皆が集まると、この笑い話を楽しみました。

また、時には、両家族が同じ日に、違うところに行くこともあり、どちらに参加するか迷うこともありました。未だに後悔しているのは、R叔父との川でのキャンプとK叔父との屋形船からの花火鑑賞がかち合った時です。
悩んだ末、R叔父のキャンプに参加しました。テントを張って、火を起こしてのバーベキューでしたが、やはり、定番のカレーが美味しかったことを覚えています。ただ、夜から雨が降ってきて、翌朝びしょ濡れになり、寒くて山を下りたのを覚えています。
そのようなこともあり、屋形船に乗っての高級料理を食べて花火観覧ツアーに参加できなかったことには未だに後悔しています。
どうも、屋形船には避けられているようで、今回のおとといフライデーの屋形船イベントも諸般の事情で参加できません。
このように、家族ではありませんでしたが、従妹たちとの楽しい家族団らんは、暖かい思い出です。
私の娘たち2人に、それぞれ3人、2人の男の子がいて、一番上が今年、大学入学で、一番下が小学校4年の5人の従弟同志になりますが、その孫たちも楽しい思い出ができることを祈っています。

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