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思い出6 ~子供時代から結婚前までの長島温泉での思い出~

長島温泉は、愛知県と三重県の県境に位置し、木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた長細い洲の海端にあります。1964年に天然温泉が採掘され、温泉レジャーランドとして誕生しました。
私は小学校3年の頃から長女が中学校に進学するまでの32年間、長島温泉でさまざまな思い出を築きました。今やナガシマリゾートとして知られる場所ですが、私の心に刻まれた古き長島温泉の思い出をここに綴ります。
私の記憶に残る古き長島温泉では、小学校3年から中学校まで、謎のSさんに連れられて室内温水プールで遊んだり、演芸場で美味しいシュウマイを食べたり、一人で温泉内を探検する楽しみを味わいました。
小学校高学年から、従妹の家族と一緒に行き、子守りも含めて大人数で楽しむようになりました。
長島温泉が開業した当初は、演芸を観賞しながら天然温泉を楽しむレジャー温泉でした。
夏休みや休日には、男の子にとって鈴鹿サーキットの方がより楽しいアトラクションが充実しており、一日中遊べるため、サーキット併設ランドの方が人気だったと思います。
長島温泉にも屋外にシーサイドプールがありましたが、後述するサニーワールドの方が充実していたと思いますが、その辺りは、区別がつかず曖昧です。
土曜の午後や冬場の外出を避けたい日、または観たい演芸があるときには、長島温泉が選択されていました。
2年後には遊園地であるスパーランドもできましたが、まだ注目のアトラクションはなく、子供たちは鈴鹿サーキットの方が楽しいと感じていました。しかし、大人たちは温泉に浸り、飲食も楽しめる長島温泉が第一希望になっており、実際には半々だったと思います。
私の場合は、様々な人たちに付いていくため、月に1回はどちらかに行っていたと思います。
中学校に進学した時には、長島温泉へ行く途中に、熱帯植物園と野外プール(冬はスケートリンク)のあるサニーワールド長島が開業されました。
長島温泉とは経営も異なる別物ですが、私にとってはこのサニーワールドを含めた長島温泉の思い出の一部です。
当時、波のプールや流れるプール、滑り台など多種のプールがあり、夏休みにはこのサニーワールドに行く機会が増えました。特に水深2m以上のプールにある飛び込み台が好きでしたが、それは長島温泉経営のシーサイドプールだったかもしれません。ただ、大きな熱帯植物園の隣にあるサニーワールドの印象が強いです。
プールで遊んだ後は、頭や体を乾かすために、または渋滞から時間を調整するために植物園に立ち寄ることが普通でした。
熱帯植物園では、普段見られないコブラなどのヘビやワニなども放し飼いされており、かなり楽しむことができました。
確か錦ヘビが脱走した事件がありました。
放送で、ヘビが逃げ出したこと、見かけても絶対に近づかないことなどがしつこく放送され、約30分間プールから出されました。
その後は、何もなかったかのように遊びましたが、ヘビが無事に捕まったかどうかは覚えていません。
この事件をきっかけに、ヘビなどの動物はガラスケースに入れられ、放し飼いが中止され、熱帯植物園が以前の面白さを失ってしまいました。
後に植物園が閉鎖されたのか、ジャンボ海水プールが開業し、客がそちらに流れたことで規模の小さいサニーワールドは廃業したと思われます。
私は大学4年生で、就職前の忙しさや卒論の制作で長島温泉に行けませんでした。就職後の夏季休暇などに四日市を訪れた際には、空いているサニーワールドに行きました。
車で行く場合、名四国道(名古屋と四日市を結ぶ国道23号線)の木曽川大橋を渡った側道から長島温泉への道路に入ります。
その途中にサニーワールドがあります。
昔は、多くの車が左のサニーワールドの駐車場に入るために側道側が渋滞していましたが、長島温泉の隣にジャンボ海水プールが開業してからは、長島温泉に直進する側が混雑し、側道にはすぐに入ることができ、駐車場にもすぐに停められるようになりました。
ジャンボ海水プールの駐車場は広いですが、入口から距離があります。
サニーワールドの駐車場では、夏休みでも入口の近くにすぐに停められました。プール内も人混みが少なく、昼飯時でも待たずに食べられ、日陰のある芝生で寝転がってゆったりとくつろぐことができました。
ジャンボ海水プールに比べて、入場料も半分以下だったと思います。
流水プール、波プール、滑り台など何でも揃っていましたが、子供たちはアトラクションが圧倒的に多いジャンボ海水プールに行ってしまい、サニーワールドは静かでまったりと過ごせる大人のリゾートプールとなっていました。
夏休みに帰省した際に、このプールによく行きました。そこで、10年ぶりに小学校の同級生に会ったこともありました。
彼の親は、実家の近くでパーラーを営んでおり、子供の頃よく訪れたことがありました。
当時のパーラーにはケーキを販売しながら軽食喫茶を営むものと、軽食を提供する明るい喫茶店の2つのタイプがありました。
一方、純喫茶は夜になるとバーに変わり、暗くカウンターが備えられていました。
その友人は軽食を提供する喫茶店の息子で、継がずに会社員として働いているとのことでした。
四日市では大手スーパーや百貨店が台頭し、小売業を継ぐ子供たちは少なくなっていました。
昨年の中学校同窓会で、今でも地元で飲食店を経営している同窓生が3人ほどいました。彼らは一度は会社員として働き、定年前に戻ってきて店を継いだと話していました。
昔のような呉服店、雑貨店、八百屋、肉屋、定食屋、などの商店はなくなり、テナント的な今流行りの洋品店やインバウンド向け土産屋や今時の飲食店に様変わりしていました。
四日市に住んでいる同窓生が言っていたのは、一時期は、夜のお店だらけになり、治安も悪くなったようですが、今では浄化して若者の街に様変わりしてきたと言っていました。
小売店として、続けられるのは、テレビで紹介されて有名になる一握りの商店だけで、歴史を形成してきた老舗が減っていくのは残念です。
話を戻しますが、その友達のパーラーで提供されるホットケーキとプリンアラモードは私の大好物でした。今のような柔らかいホットケーキではなく、表面はしっかりと焼かれて色づき、小麦の風味が漂う程よい厚みのホットケーキでした。バターの塩気、ちょうどよい生地の甘味、小麦のほんのりとした甘い香り、そして、もっと欲しくなる微妙に足りないシロップが絶妙なバランスでした。
また、プリンアラモードのプリンは、口に残る固めのプリンでした。ほろ苦いカラメールソースによって、卵の甘みが増幅されます。プリン本体は甘味控えめで、それに対して甘味強めの生クリームがトッピングされていました。
当時のフルーツは、今ほど甘味もなく、酸味と香りが強かったので、それをマイルドにする甘めの生クリームはぴったりでした。
子供にとって、安くはなかったですが、親父のポケット銀行から拝借で結構食べに行きました。
親父の代で、店は閉めたとの事で、食べられないのは残念に感じています。
このように、サニーワールドは、友達にも会える憩いの場でありました。
今では、様変わりしてゴルフや乗馬が中心の長島スポーツランドとして存続しているようです。
ジャンボ海水プールができた翌年に、埼玉での就職が決まり、四日市に戻る機会は夏季休暇や正月ぐらいになります。

その頃、精神的な問題で入院していた叔母が、退院して回復し、郊外に引っ越したR叔母さん家の隣に祖母と叔母が住む家を購入していました。
夏季休暇で実家に戻る際には、その郊外の家に泊まり、食事の世話は隣のR叔母さんがしてくれました。
R叔父さんは、私が高校生の時に脳溢血で亡くなっています。長女のTさんは、まだ中学生でした。
お袋も脳溢血で倒れ、寝たきりになり、埼玉に連れて来て亡くなっているので、家系のようです。
不謹慎ながら、R叔父さんが亡くなられたことで、R叔母さん家には訪問しやすくなりました。それで、大学時代に車の運転ができるようになってからは、結構お邪魔していました。そのようなことで、帰省する際にもお世話になっていました。

7年ぐらい経った時に、おもちゃ屋が傾き初めて、この家を手放したようで、結局、祖母と叔母は実家の2階に住むようになります。
7年ぐらい経った時に、おもちゃ屋が傾き初めて、この家を手放したようで、結局、祖母と叔母は実家の2階に住むようになります。
私が帰省した時には、小学校時代に使っていた離れを使う事になります。
就職して2年目の夏に見合いを行っています。
恋愛経験としては、高校の時に、同級生に初恋をして、電話で告白して見事玉砕しました。
結構人気の子で、同じ同級生と結婚して幸せになっています。
昨年の65歳(実際にはコロナの影響で2年遅れて67歳)の中学校の同窓会で彼女に会いましたが、当然ながら完全に叔母さんに変わっていました。
ただし、40年ぶりの再会でありながら、話しているうちに自分の中で作り上げた可愛らしい姿がシンクロし、楽しいひとときを過ごしました。
同窓会も楽しかったので、70歳の同窓会にも参加したいと思っています。
初恋の女性の名前は、妻や子供には知られていませんが、長女の名前に使っています。
これはNOTEが気づかれるまでの内緒です。
大学時代も北海道旅行に行った時に、大沼のユースホステルで、出会った奈良県女子短大生と知り合いになり、戻ってから学園祭に行ったりしましたが、自然消滅しました。
そのような事で、従妹Tさんと結婚すればと言う他愛も無い話が出るくらいでした。
そのような事で、見合いと言う事になったようです。
見合い写真では、ぽっちゃり系の女性でしたが、実際に会ってみると意外にもすらっとしていました。
仲人さんらしき人と、相手と相手の母親と、私と私の母親の5名で、都ホテルで、見合いは行われました。
軽食を頂いて、若い者同志好きにしてと言う事になり、私と彼女の二人で出ました。
座を立って二人きりになった時に、ネクタイをすぐには外したところを、追いかけて来た相手の親に見られたのは恥ずかしかったです。
二人きりになった後、遊園地である長島スーパーランドに行くことになりました。
夏休みとはいえ、まだ全国的な知名度は低かったので、遊園地は混雑しておらず、駐車場にもすぐに入れました。
観覧車やコーヒーカップ、360度パノラマ展望台などのカップル向けの乗り物から、絶叫系のバイキングやジェットコースターまで、普通に二人で楽しみました。
基本的には、二人も23歳前後だったので、まだ、結婚も考えておらず、ただ引かれたレール上で、もらった軍資金で、レジャーランドを満喫しただけでした。
特に覚えているのは、当時流行したダイエット食品であるハイマナンを四六時中飲んでいました。
女性は痩せるために努力して大変だなと思いました。
その夜に、相手から断りの連絡があり振られました。
お互いに話している時、結婚に興味もなく、流れてしまう事は、予想していましたが、その晩にいきなりふられたのは、少しショックでした。
これが、最初で最後の見合い経験でした。
若い時に、一度は見合いを体験してみるのも良いと思いました。
酒のつまみ話では、男女とも受ける話題になります。
以上が、小学校時代から就職するまでの長島温泉の思い出1になります。
結婚、子供が出来た後も、長島温泉にお世話になっていますが、後程またNOTEにアップしたいと思います。

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